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[コメント] 耳をすませば(1995/日)

題材が持つ気恥ずかしさを、いつの間にか自らの10代の日々のもどかしさと素直に重ね自然に受け入れている自分に気づく。たぶん、光学的なカメラのレンズではなく、生身の心象として切り取られ作画として提示された光景の暖かな既視性に寄るものだと思う。
ぽんしゅう

「コレなら別にアニメじゃなくて実写で良いではないか」と思わせるアニメーション映画がある。この作品も一見そう見える。しかし、誰しもが通り過ぎて来た「この気恥ずかしい」が素直な想いを再び大人たちに思い起こさせるためには、あるいは今まさに「このもどかしさ」の真っ只中にいる少年や少女たちに、その迷いや悩みはいたって正当なものであるということを伝えるためには、作品が乗り越えられなければならない照れや羞恥の壁が観客の心の中に存在している。

その壁を乗り越えて、心の素直さの領域にまで作品の主題が浸透するためにはレンズという光の歪みを通したカメラのフレーム内光景では得られない「ある種の暖かさ」が必要で、それは日常の生活背景としての風景や、そこで交わされる交流としての光景が「その暖かさ」もった人間の目によって切り取られ、ある思いをもってデフォルメされた作画という創作物でしか抽出し得ない種類の「暖かさ」なのだろう。

光学機器からの拘束以前に作画という行為が基本となるアニメーションという手法が、映画をカメラのレンズという束縛から開放し、人間のある種の心の壁を易々と乗り越えて、さらに映画の可能性を広げうるものであるということを感じさせる作品である。

(評価:★4)

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