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[コメント] 私は貝になりたい(1959/日)

三上寛は激情の中で「誰を恨めばよいんでございましょうか」と歌ったが、清水豊松は絶望的な無力感の中で「私は貝になりたい」と呟いた。法と政治、戦争と平和の狭間に存在する陥穽、ブラックホールに落ち込んだ憐れな犠牲者よ、本当に申し訳ない。悲しいことに俺は貴方の為に何も出来ない。
町田

聞きかじっていた内容は勿論、「監督:橋本忍」に期待して鑑賞。その期待は良い意味で裏切られた。派手さはないが、全身に圧し掛かるような重厚な長廻しの連続。これを観て罪悪感を持たないで済む人間(敢えて日本人とも米人とも言わず人間、と記す)が羨ましい。

清水豊松さんは上官の命令に従って米国人俘虜(の遺体)の右腕に銃剣を突きつけた。これは本人も認める紛れも無い事実である。

ただし彼は帝国軍人としては積極的ではなく、問題となった行為も命令に寄って強制的に行わされたものである。が、かといって彼は戦争反対論者ではない。米兵を憎み、朝鮮人民、中国人民の権利を無視し、天皇陛下の名の元に行われる日本の侵略行為を指示していた。

しかし、これらのことが軍事裁判の判決に影響することはない。

彼は殺されなければならなかったのだ。我が子、或いは我が夫を殺された米国民の「納得」の為に。今後起こりうる類似事件の防止の為に。清水豊松と彼の犯した行為は、少なくとも当時に於いては、米国民の総意、民主主義に基づいて「最も望ましい形」で「処理された」のである。

さて俺にはどうもアメリカ民主主義と独裁主義の違いが解からない。日本軍部やヒトラーや後のスターリンは自国民に対して絶対的な権力を振るったが、「アメリカ国民の総意」は一個の独裁的意思として世界民に対して絶対的な権力を振るい続けているではないか。

何、国連?常任維持国ってなんだよ。誰が決めたんだよ。なんで原爆既に持ってる国はOKで後から作っちゃいけないんだよ。云っていることがサッパリ…

否、解からなくないのである。不幸なことに。

理論はムチャクチャでも「そういう取り決め」がバランスを維持するためには一番望ましいだろうということを皆、本能的に悟っているのだ。北朝鮮が「米帝駆逐の為に原爆を開発する自由」を日本国民や米国民は、家族や恋人の安全の為にも、絶対に認めてはいけないのである。イスラム勢力についても然りである。文化も生活習慣も著しく異なるイスラム教徒達と民主的合意を測ろうとすると数で負けるからそれはしないで武器と金をちらつかせるのである。

そう、清水豊松さんは日本がアメリカ指導の元で新しく生まれ変わる為に自国民からも黙殺された憐れな犠牲者であった。大多数の平安の為に切り捨てられた一匹の憐れな子羊であった。彼は、目に見えない陥穽、法と政治、戦争と平和の間にポッカリ空いたブラックホールの上を偶々通りすがった不幸な一理髪店主にしか過ぎない。

豊松さんが落ちた穴。それは答の見つからない不条理以外のなにものでもない。ザムザ氏は目覚めて自分が甲虫になっていることに驚いたが、豊松さんはそれ以上に驚いたことだろう。そして嘆いたことだろう。

だから俺は「豊松さんは俺の替わりに死んだのだ」と当然のように思うのである。俺が豊松さんの立場だったら刺したかどうか解からない。組織大嫌い人間なので刺さなかったかも知れないが、そしたら俺は上官に銃殺され、別の奴が刺し、そいつが首を括られる。死人が一人増えるだけである。豊松さんは俺と俺の見知らぬ戦友Aの替わりに死んでくれたのである。本当に申し訳ないことだ。

俺には何も出来ない。俺には戦争を止められない。

俺に唯一出来る事と言えば、それは、許されざるべき無差別殺人が起こって、その被害者の中にたとえ俺の家族や恋人や親友の誰かがいたとしても、科学的根拠に基づかずに犯人の断定を早まったり、犯人に対し発作的な私的報復措置を加えたり、普段唱えている死刑廃止論を曲げたりしないで済むよう、またそれを助長するような世論に流されることの無い様、心の準備をしておくことくらいだ。

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