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[コメント] マジェスティック(2001/米)

人生劇場 飛車角抜き
町田

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







映画は映画館は夢を与えてくれる、という親父さんの台詞には正直胸を打たれた。シネスケの先輩コメンテーターに憧れほんの半年前に劇場至上主義者に転進したばかりの俺のような若輩でさえも、新宿昭和館の閉館、早稲田松竹の長期休館という相次ぐ訃報に立ち合うことを余儀なくされ、無力感を禁じえない。だから、映画館を復活させる、というプロジェクトは未見の名作?『ニューシネマ・パラダイス』で既に扱われていたのかも知れないが俺には魅力的に映った。ジム・キャリーと彼の帰還を歓迎しなかった義手の復員兵との邂逅の舞台を『欲望という名の電車』にするような心憎い演出にも心惹かれた。

では、どこから歯車がおかしくなったのかといえばそれはもう冒頭からである。ジム・キャリーが「赤狩り」にマークされた脚本家であるという設定は、見知らぬ街に流れ着き瓜二つの別人に間違えられた男の心の変遷を綴ろうというストーリーと何の脈絡もない。しいていえば’40年末〜’50年初頭という同時代性だけである。

マジェスティック』という表題は、映画館「マジェスティック」復活に尽力した男が、赤狩り公開尋問に「威風堂々たる=マジェスティック」態度で臨む、という(観終わってみれば大変平易な)ダブル・ミーニングから採られている。製作者がどちらの「マジェスティック」を重視したかというと(僕には残念なことに)後者である。映画館「マジェスティク」のラストの巻交換は果たされなかったのである。「ラストシーンを観せないまま観客を帰すわけにいかない」という親父さんの美学を全うさせなかった直後に俺はこの映画に向ける眼差しを変えた。ジムにも監督ダラボンにも映画館「マジェスティック」が自己再生へのワン・ステップでしか、客寄せの小道具でしかなかったことが解ったからだ。

親父さんが死の間際までジムを息子だと信じているようにみせたのはこの映画最大の美点であったと思う。親父がジムを「別人」と認識していることはジムの転覆した自動車の記事の載った新聞を驚き慌てて捲り返すワンシーンが雄弁に語っていた。俺の、ここの心情説明だけは最期までしないでおいてくれよ、という願いは葬式の直後に彼女の台詞によってあっさり打ち砕かれてしまった。「始めからそうだと思ってたけど信じたかったのよ」などという親切ご丁寧な台詞にハリウッド映画の限界・悲哀を感じずにはいられない。

赤狩り映画というのはいつでも一緒である。W・アレンかデ・ニーロの同系作品のどちらかでも観ている人ならば後半の安直な展開に吐き気に似た嫌悪感を催したことだろう。ジムは「アメリカは自由と正義の国である」と”威風堂々”唱えてみせるが、こんなもので赤狩り執行部が態度を緩めるはずがないのである。そもそも赤狩りを”共産主義者追放という、ある種の正義の暴走が招いた愚かしい過去の過ちである”というのが甘ちょっろい。これを扇動したマッカーシー議員には確実に売名・自己宣伝の意図があったはずだし、FBI捜査官はポイント稼ぎに躍起になっていたはずだし、ハリウッドの作家たちも利権を巡って足を引っ張り合っていたはずである。赤狩りの動機は正義ではなく、利権であったのだから、ジムが法廷で何を言っても無駄なのである。否、無駄ではない、むしろ物申すべきなのだが、これが報われてしまうことは在り得る筈が無く、少なくとも俺にとっては許せないことである。映画ではなんだかごちゃごちゃ理由を説明していたが(帰りの車内のシーン)あんなものは何の意味もない。脚本家には復帰出来なかったが村で英雄になってすんごくハッピー、それのどこが悪いのだろうか?

ブギ・ウギ・ピアノを主軸とした作曲・選曲は大変俺好みであった。ので、要所要所で掛かる類型的な「お涙頂戴スコア」には目を瞑ろう。

(評価:★2)

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