[コメント] 博奕打ち 総長賭博(1968/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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任侠組織なんて資金集めの手段か自己の政治的野望の踏み台くらいにしか思ってない仙波(金子信雄)が、最後、中井(鶴田浩二)に追い込まれると、「(中井の親分の兄弟分にあたる自分にドスを向けることが)お前の任侠道なのか?」と鋭く問い詰める。いい根性してるよなあ。まさに後の『仁義なき戦い』シリーズで金子自身が演じた山守親分を彷彿とさせる老獪さ。それに対して中井は、「あっしはケチな人殺しでやんす(意訳)」と任侠道をあっさりかなぐり捨て、仙波をメッタ刺しにする。任侠映画ならではの「必ず最後に正義が勝つ」カタルシスを存分に味わわせてくれる。
・・・が、そこで任侠道を拒否しちゃまずいんじゃない?いくら任侠道が自己否定のナルシズムという特異な価値観を掲げているからといえ、任侠道そのものを否定してしまったら、任侠映画の枠組を借りていること自体の意味が・・・、矛盾でしょ?だって任侠道なんて価値観は、現実の世の中にはもはや存在しないどころか、過去にだった存在したかどうか疑わしいわけで、それを知りながら(あるいは知る故に)かろうじてスクリーン上で成立することを期待して映画を観るわけだから。
したがって、これが任侠映画という枠組から搾り取れる最後の一滴だというならまだしも、この後も延々と撮られつづけるわけだから、この作品を「任侠映画の最高傑作」(映画館からもらった紹介チラシより)とは呼びたくない。任侠映画の最高傑作は、任侠道を描ききった作品であってほしいから。
ただ、「一般的に任侠映画と呼ばれる映画」の中では、自分は10数本(中野で)観ただけだが、いまのところ最も気に入った作品である。各人が任侠道を逸脱し自己の欲望に正直に振舞うところが、むしろすんなり肌に馴染む。ギリギリのところで選択を強いられる彼らの切なさは、彼らが自我を貫き通すことに拠る方が、より切実なものとして理解できる。むろん、そんな奴ばっかりになっちゃったから、世の中に任侠なんてなくなったんだろうけど。
ちゃぶ台(?)を挟んで正座して向き合う鶴田浩二(中井)と若山富三郎(松田)。シネマスコープとはこういうシーンの為にあったのではと思うくらい決まっている。任侠映画の枠組を上手く利用し、収める所はきちんと枠内に収めながら、ほどよく突き崩していくセンスが秀逸で、まったく展開が読めない。天龍会なんて真の敵を見誤りつづけた挙げ句、自己崩壊を遂げちゃうんだもの。ラストもいきなり判決文を読み上げて終わるんだから、観てるこっちが頬を両手の平で押し挟んで、自己崩壊を遂げるところだったよ。
90/100(02/07/20見)
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