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[コメント] 2001年宇宙の旅(1968/米=英)

サイマフの解釈:タイムワープ、そして、1955年7月7日七夕、→
muffler&silencer[消音装置]

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







研ナオコが地球に漂着した!

くだらんオチですんまへん…。とあるバラエティー番組で、研ナオコの子どもの頃のまさに人間離れつーか宇宙人な写真を見て、「どっかで見たことあるなあ」と脳ミソにこびりついてたのでありますが、2001年12月のある夜、十数年ぶりにこの映画をスクリーンで観て、長年のひっかかりがスッキリ。あの目の離れ具合、あの鼻のキュっとした立ち具合、まさに研ナオコでありやした。

え〜真面目にレビューも書いてみたかったのですが、書きたいことは、もうほとんど書き尽くされてますんで。

ただ言えることはひとつ。「理解」というのは、結局「ツモリ」の世界であると。

どんなに<ワカリヤスイ映画>であっても、極論を言えば、とどのつもり、それは「ワカッタツモリ」の<解釈>の枠を出ないと、僕は思います。この映画のいわゆる<難解さ>は観客への<解釈の介入>を強要している芸術家の高慢と怠慢というよりも、「これ以外に表現しようがない」という、それこそ<コミュニケーションの限界>、そのぎりぎりまで突き詰めた結果の<残留物>なのではないでしょうか。

「ここに『2001年宇宙の旅』という映画がある」「今『2001年宇宙の旅』という映画を観ている」という知覚と記憶の対象を認知する意識さえ超越して、言ってしまえば、自分が「今ココニイル」その根源に出会ったような一体感があるのです(*1)。つまり、<見る><聞く>という受動的な行為から<理解する、あるいは解釈する><記憶する>という能動的な行為、その境界線を消滅させてしまう(*2)、「一本の映画」と言ってしまうには、あまりに歯痒い、奇跡的な<体験>が、この映画との邂逅にはあるのではないでしょうか。

一度、あの呼吸音に自分の呼吸を合わせてみてください。というか、知らず知らず、見事に合ってしまっているこに気づくことでしょう。

追記:

*1:そもそも、宇宙は我々自身の中にある。マルティン・ブーバーのことばを借りれば「わたし―あなた (Ich-Du)」というその「― (ハイフン)」そのものが宇宙なのではなかろうか。

*2:そもそも、そこに境界線を引くこと自体が愚行、"human error"の根源なのかもしれません。

*3:cinecine団様は冗談っぽく仰ってますが、直感でモノを言うことが許されるならば、あのシーンだけでなく全体的に仏教的だなあ、と僕は感じました。

(評価:★5)

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