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[コメント] ドライブ・マイ・カー(2021/日)

役を降りること、役を引き受けることについて。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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3時間の長さだし、会話の多いドラマだったが、なぜか最後まで緊張感が途切れなかった。「韓国語と日本語は文法が同じだから、単語を多く覚えれば多くしゃべれるようになります」みたいな台詞、特段「物語上必要」な台詞ではないから、尺を削りたいと思ったら削っちゃってもよさそうなのにそうしていない。カメラが発話している人物を撮っている時、その話を聞いている聞き手を撮っている時、会話をしている2人の話を聞いている3番目の人を撮っている時などのカットの使い分けや、また会話が多い反面、画面の中で誰も何もしゃべっていない場面の創出、SEだけが静かに音をたてる場面(高槻が警察に連行される場面で、劇場のドアがあくと風が漏れ出す音がするなどが印象的)もあれば、上十二滝村の、みさきの実家のあった場所にサーブが近づいてくるロングショットでまったく無音になる場面もあり、とても考えてそういう選択をしている感じする。

映画の中で舞台劇の本読みをする時に、役者たちが棒読みで行うなどは、監督が映画を撮る時に実際に行っている方法らしい。どういうことでそうしているのかわからないが、監督にとって「音」や「無音」、「台詞」や「無言」ということに、こだわりたいがためにそうしていることは確かだろう。平和記念公園での立ち稽古でソーニャ役とエレーナ役が会話する場面で、家福が「いま2人の間に何かが生まれた」というシーンがあったが、実際映画を観ているこっちもなんだがそんな風に思う。言うだけなら簡単だが、実際に多少でもそう思わせるものがあるからこそ観客も納得いくような、そういうものを少なくとも監督は実際に意図的に作り出せるのだと思う。会話や無言が交わされる中での情感の交換をしっかり描く方法、棒読みの会話のやりとりに深い情感を含ませるというと、小津安二郎の映画を思い出すけど、それとはまた何か違うこの監督の持っている演出メソッドがこの3時間の濃密なドラマを作っているのかな、と思う。

劇中劇という構成がこの映画のテーマにはすごく重要だったと思うのは、ワーニャ伯父さんの最初の本読みで、高槻が感情をこめて台詞を読み家福に注意されるシーンがあるが、その時の高槻が台詞に付加した感情は、いわゆるステロタイプなもので、高槻という人間の中の「なんとなくこういう台詞を発する時の体」というものであり、会話を交わす相手の存在とは関係のないもので、家福の実践しようとする、相手が何を言っているのかわかららずに芝居をする多言語演劇では、それをみながやってしまうと会話を交わしている風にならないからそうするということが理由なのだと思うが、これって実はわれわれがふだんの生活の中で無自覚にやってしまっているのではないか、ということが本作のテーマなのではないか、と個人的にはそう思っている。

ふだんの生活でただの必要実務上交わされる会話なら問題はないのだが、実際にドラマチックな場面に出くわした時でかつ瞬間反射的な対応でなかった場合、どう振る舞うべきなのかよくわからずに、自分がかつて見聞きしたことのあるドラマなどの場面で役者が演じていたような芝居を模倣してしまうというようなことをしてしまっているのではないだろうか? もっと言ってしまえば無自覚のうちに「役を演じている」というようなことがあるのではないだろうか? ということが本作のテーマなのではないか、と思うのだ。

家福が妻の浮気を目撃してから以降、家福は何かしらの役を演じてしまっていたことは、高槻が役を降板することになった時に、「今の自分は自分を芝居に差し出せない」と代役を断るシーンでも明らかだ。妻の浮気相手の高槻を本来自分の配役にキャスティングする中に含まれた作為と、そのことになんとなく感づいている高槻が、車中での「前世がヤツメウナギの女子高生の(家福の知らない)ラストのエピソード」を話すことで家福に揺さぶりをかけるシーンなんかでもわかる。「妻の浮気相手への面当てでなくあくまで演出家としての選択をしているだけの演出家」を演じているのではないか、という高槻の告発だと思う。

家福は音が死んだ夜に自分に何を話そうとしていたのかおそらくわかっていたと思う。音は「家福の愛する妻」役を降板することを家福に伝えようとしたのだろう。そこに向き合わないために何か別の役を演じてしまっていた。妻の浮気に対して、妻が自分から心が離れたことに対し「正しく傷つくべきだったんだ」ということは、演じていた役を降りて、自分のために「自分」という役を引き受けるということだったのだろう。それを親との関係性から、やはり自分以外の役を演じているみさきを通してわかったのだ。ラストのワーニヤに話かけるソーニャの台詞は、自分のために自分の役を引き受けることの苦しさと、でも人間はそれにきっと耐えることができる、ということであり、この物語と通じるがゆえにとりあげられたのだろう。その芝居を観ているみさきもそのことがわかったのだ。

ラストのみさきの韓国のシーンは、自分と向き合うということが、みさきにとって自分の出自と向き合うということだったのだ(作品でははっきりとそう言っているわけではないが、もしかしたらそうなのかな)と推測した。だとしたら、あざとい「物語上必要」ではないエピソードなのかも知れないと思うけど、他人の車の運転手だった彼女が自分の車(になった)を運転して、「本当の自分」を生きていく、という場面の強化であり、「この映画なんで『ドライブ・マイ・カー』っていうの?」っていう観客に対する、誠実な説明なんだと思う。こういうシーンを入れる入れない、入れるべきだと考えるのは監督の人柄なのだろう。

長くなったが最後に一つ。配役で一番印象的だったのは聾唖の韓国人俳優役のパク・ユリム。前述のワーニャ伯父さんでの台詞の場面もよかったけど、家福とみさきと家で食事をしている際、家福がみさきの運転を褒めたことに対し、「それくらい役者も褒めてください」と冗談を言うような自然な仕草がとても良かった。

(評価:★5)

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