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[コメント] チャーリーとチョコレート工場(2005/米=英)

本来、子供は欲望など持ってはいない。彼らがもっともっとと際限なく物事をねだるのは、彼らの頭の中に終わりや限界が存在しないからだ。そう考えると、子供だけが持ちうる探求心とは純粋なる「希望」と言い替えることも出来なくはないのだ。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







純粋なる「希望」は子供の特権なのだ。そして、その特権を奪うのはいつも大人なのだ。何故なら、大人の希望は欲望で汚されているから。

厳格な歯科医であるウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)の父は、息子からチョコレートを奪うことでウォンカの「欲望」を禁じたのではなく「希望」を奪ったのだ。世の中には、こういう大人が実に多い。何故なら大人の「希望」の裏には必ず「欲望」が存在し、すでに自分ではその区別さえできなくなっているものだから。各言う私もご多分にもれないであろう。

「欲望」に汚されていない「希望」は強い。何せ子供の心のままで大人の世界へと入っていくのであるから、大抵の大人は敵うわけがない。ウォンカはこうして事業を成功させた。そして、最も「欲望」に汚された同業のスパイの存在によって心を閉ざしたのだ。

だからウォンカは親と欲望を憎む。食欲の化身となった飽食デブ少年、征服欲満々で人を蹴落とすことしか頭にない空手少女、決して自分の手を汚すことなく所有欲を満たす金満嬢ちゃん、夢を描くことを忘れ合理性だけを武器に生命欲を満たそうとするバーチャル坊や。本来、自分の同志であるべき子供の腐敗ぶりを、当然ウォンカが許すはずもない。

そして、この子供たちを生み出したのは、まぎれもなく「欲望」と「希望」の区別ができなくなった大人たちでありこの子供たちの親も制裁を受ける。ここまでは理解できる。

では何故、ウォンカは自分の父を許したのだろうか。

「欲望」と「希望」を混同し再現なく大人の価値を植え付ける親よりは、誤って「希望」は奪ったが「欲望」漬けにはしなっかた自分の父親の方がまだましだということか。父親の過ちの原因が自分に対する愛情にあったと気づいたからか。そんなことは無いだろう。子供を欲望漬けにした親たちも、愛情の発露を間違えたということではウォンカの父と同じだ。唯一考えられるのは、ウォンカの不在で父親は充分に制裁を受けたということか。

ティム・バートンは、ウォンカと父親の和解話を最後に持ち込んだことで、物語は現代批判から一転親子の人情話へと引きずられ大失敗をしている気がする。

(評価:★3)

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