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[コメント] アトミック・カフェ(1982/米)

核の恐ろしさを描く映画かと思って観たら、政府の恐ろしさを描く映画だった。核という恐ろしい兵器を所有する政府という組織が、実はその兵器よりさらに恐ろしい物だったとするなら、核なんて物は誰に持たせるのが正解だったっていうんだろう。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この映画が公開された当時、確かに核は今よりずっと“身近な恐怖”でした。日本でも全国のあちこちで反核の集会やデモが行われ、シカゴ大学の終末時計の針が注目を集め、何より被爆者の生の声を今よりずっと多く聞くことができた。

 だから公開当時のこの映画は、その“身近な恐怖”を実際に保有している人々がどれだけ信頼性の低い情報を流布してきたのか、そしてそれがどんな影響を及ぼしながらここに至ったのかを知らしめる効果が強かったんだと思われます。無知な人々(それが自国民であってても)に右を向かせるために、「核の恐怖を有する共産圏」とそれに対して「効果的な対処法を教えてくれる米国政府」という救世主的なスタンスをでっち上げ、気付けば世界は抜き差しならない緊張状態の中にあった。そんな時代における純粋な「反核映画」としての意味合いが強かったように思えます。

 もちろんこの映画はある一つの意図を有して映像を組み合わせた物であり、そこに意図が存在する以上、それを全て事実として飲み込んでしまうのは危険だとは思います。ただ、事実ヒロシマには原爆が落ち、ビキニ環礁は破壊され、アーミーたちは被爆したんです。それに対して一部の市民は映画内のような情報を与えられ、懸命にレンガで核シェルターを作っていたんです。少なくともそこまでは(当然それも僕がメディアで見た情報でしかないのですが)事実だと思っていいのだろうと思います。そして恐ろしさの事実としては、それだけでもう充分なんです。

 映画内ではラストに水爆が落ち、全ての人々は己の無知を己の体で知ることになるであろう終わりを迎えます。だけど現実には水爆は落ちなかった。もちろんそれは喜ぶべきことではあるのですが、反面政府のその罪は糾弾される機会すらないまま21世紀に入ってしまっているわけです。幸運なことに核の恐怖は今やかなり“遠くの危機”になった。しかしながら今作で描かれた政府の恐怖は、この時もそして現在も、その時代の僕らの目では見ることはできません。

 僕らは核に対しての誤情報によりレンガでシェルターを作り、自らの島を実験に差し出し、核ノイローゼが治ってしまう人々に哀れみの視線を送ります。だけど現在、核兵器以外の場所で同じ行為が行われていたとしても、残念ながらそれを知ることは難しいんです。50年後の人々が今の僕らを見た時に、僕らがキノコ雲に向かって歩を進めて行くアーミーたちと同じに見えないという保証はないんです。

 数年前に茨城の東海村で放射能漏れ事故があった時、ニュースではマスクをして傘を差して歩く住民の姿を映していました。僕らにはそれを笑うことはできません。僕だってその場にいたらそうしてるかも知れない。効き目がないことはわかっていても、他にできることがないから。

 世界は確かに進歩しました。だけど国家と大衆、そしてその関係性は果たして進歩しているんだろうか。今の時代にこの映画を観て、何となくそんなことを考えました。

(評価:★3)

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