[コメント] ウォンテッド(2008/米)
あるいはもっとはっきりと「弾丸が曲がる、というのが気に入らない」と云ってもよい。この作品世界においては「何でもアリ」なのだというのならそれも構わないが、銃撃演出に限って云えばベクマンベトフはその「何でもアリ」に甘えてしまっている。映画における「銃撃」を大雑把に要素分解してみるならば、「距離」「方向」「遮蔽物」「着弾部位」「殺傷力」などとなるだろう。むろんもっと様々の要素を挙げることもできるだろうが、ともかく弾丸さえ曲がってしまうこの映画の銃撃は距離も方向も遮蔽物も着弾部位も関係なく一撃必殺であり、そこに銃撃アクション本来の身体的かつ知的な興奮はないのではないか。肉体的エフェクトを伴う銃撃演出であればライミ『クイック&デッド』のほうがよく考えられていたし、「発射後の操作が可能な弾丸」という着想を使ってシーンを設計することについては(私はほとんど漫画を読まない人間ですが)『ジョジョの奇妙な冒険』第五部が既にやり尽くしており、その着想だけではもはや惹きつけられることはない。また、その漫画以上のことが映画的な仕方で実現されていたとも思えない(そう云えばジョリーの顔面の造作はちょっと荒木飛呂彦っぽいですね)。拳銃そのものに対するフェティシズムについて云うならば、たとえばウィンターベア『ディア・ウェンディ』なんかのほうが魅力的に表現できていたし、またテーマとも有機的に結びついていたと思う。
以上をまとめて云えば、何でもアリだ! と浮かれて銃撃演出に課されるはずの「制限」を取り払った結果として、何の工夫もなしにシーンを構築できてしまっている、ということになるだろうか(もちろん、そのぶんポスト・プロダクションや役者のポージングに力を入れてはいるのですが。しかし高速度撮影と微速度撮影を適宜織り交ぜればそれで一丁アクション・シーンの出来上がり、とする考えがそもそも甘いと思います)。自動車・列車演出については「制限」を受け容れ、その上でどうすれば面白くシーンを構築できるかという工夫が幾分なりともある。鼠爆弾などの着想も悪くない。
ところで話は変わるけれども、「織物」にメッセージを読むという発想はこの映画(あるいは原作)のオリジナルなのだろうか。それとも西洋には古来からあるものなのだろうか。私はそのあたりにはとんと無知で恥ずかしい限りだが、いずれにせよその発想は奇抜なものというより馬鹿がつくほどに直接的なものだろう。というのは云うまでもなく、読まれるものとしての「テクスト」の原義は「織られたもの」だからだ。モーガン・フリーマンらが織物からメッセージを読み、それに従うさまの自明ぶりといかがわしさは、したがって「テクスト」およびそれを「読むこと」の恣意性と必然性を一面ではよく描いていると思う。が、それ以上のテーマ的/テクスト論的深化は認められない。が、それらがこの映画の欠点であったり美点であったりすることもまたない。
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