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[コメント] ぼくのエリ 200歳の少女(2008/スウェーデン)

およそ説明のつかない、あらゆる意味付けや価値観・倫理感を超越して他者の理解を寄せ付けない排他的な「理解」こそ「愛」と呼びうる局面があるのであって、その観察の的確な実践と言える。字義通りの空腹のみならず、殺意、孤独、あらゆる「飢え」が表出する。それを「みたす」ことへの二律背反する感情。作品内で展開される「行為」の全てが深く、見応えがある。
DSCH

**ネタバレ注意**
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エリを伴って現れた男の、酸で焼いた顔の無残、『ダークナイト』のトゥーフェイスを思わせる。どこか寂しさをまとった静かな風貌がはぎ取られ、愛するもののために数多のノドを裂いてきた罪と罰への恐れ、老いと死によりエリを遺すことへの不安、善悪の二面性に引き裂かれた内面の表出を見せるとき、おぞましさというよりも、それでもなお長い年月を経て育まれてきた「愛」の不可解さがのぞく。

「不可解」などと不用意な表現を使ったけれども、一つの「愛」の説明に、意味というものは価値を持たない。およそ説明のつかない、あらゆる意味付けや価値観・倫理感を超越して他者の理解を寄せ付けない排他的な「理解」こそ「愛」と呼びうる局面があるのであって、その観察の的確な実践と言える。自らの顔を焼き、生命維持のパイプを抜いた上でエリと抱擁を交わす。エリに血を呑ませているシーンが、二人がキスしているようにしか見えない、このシーンが震えがくるほど美しい。「美しい」という言葉もまた不用意だが、魂が震えた、というのは確か。彼はエリの血肉として生きることになる。

病院を訪れたエリが男のことを「パパ」と呼んだり、「採取」に出かける夜に「あの少年(オスカー)に今夜は会わないでほしい」と男が発するシーンに胸を引き裂かれるような思いがする。いつからエリと行動を共にしているのか明かされないままだが、おそらく「パパ」とは、エリと違い老いていく男の風貌との、社会的なつじつま合わせの呼称で、かつては違う名前で呼ばれていたのだろうと想像する。エリが男のしくじりをなじるシーンの語調も、奴隷として男を見下しているのではなく、かつて、おそらくはオスカーと同じようにして出会い、対等に愛し合っている人間同士のまっすぐな言葉に聞こえる。そして、嫉妬にも聞こえる男の言葉ににじむ「愛」の切実。オスカーの住む街を訪れた際の、車内の二人のショットが思い出される。鼻歌を歌うエリと、それを見つめる男の横顔。

字義通りの空腹のみならず、殺意、孤独。あらゆる「飢え」が表出する。それを「みたす」ことへの二律背反する感情。作品内で展開される「行為」の全てが深く、見応えがある。演出上間違っている部分はほとんどないと思う。また、「におい」への観察が的確で、エリと暮らす男が「におい」を気にしないこと、「におい」を気にしたオスカーに近づくために着替えたり、体を洗う、もしくは体を洗わずにオスカーと抱擁するというシークエンス一つをとっても、深い。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)irodori[*] Myrath プロキオン14[*] 袋のうさぎ セント[*]

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