★3 | RRR(2022/インド) | 「速い」と「遅い」、映画において面白いのはどちらか。当然「速い」である。速ければ速いほうがよいとまでは云わぬが、大概は遅いより速いほうが面白い。自らが撮った画面にスローモーションの氾濫を許してしまう演出家はそんなことも知らなかったのか。あるいは、まさか、面白さを目指していないのか。 [review] | [投票(2)] |
★4 | ボーはおそれている(2023/米) | 場がホアキン・フェニックス宅周辺に留まる序盤は「意思疎通不全」「治安最悪」「弱り目に祟り目」と面白三拍子が揃って特選喜劇の風格だが、帰省に出立するあたりから徐々に従来のアリ・アスター的想像力に収斂。頬杖をつく頻度も増してしまう。肥えても軽やかなホアキンの瞬発動作には花丸を進ぜたい。 | [投票(2)] |
★3 | フィル・ザ・ヴォイド(2012/イスラエル) | 「『秋刀魚の味』の国の観客としては」などと云い出しては結婚を材としたすべての外国映画が不憫なので、そこは口をつぐむ。噺はよく書けているが演出の独創に欠け、たとえば「アコーディオン」から感動を引き出す手立てを何ら講じないあたりを見ても、どうにも映画勘が鈍い。劇伴音楽はやや低劣である。 | [投票] |
★4 | 夢は牛のお医者さん(2014/日) | 「新入生がいないのは淋しいから、代わりに牛を新入生として迎えよう」という発端がまず大いに奮っていて(三頭の仔牛の名づけ―「元気」「強子」「モグタン」―にまるで統一感がなく、その命名由来が明かされないのもいい)、涙腺を刺激する強さで云えば、やはりこの児童時代の諸シーンが際立っている。 [review] | [投票] |
★4 | ヴィクとフロ 熊に会う(2013/カナダ) | この演出家が非凡な才能、すなわちいかなる状況でもカメラポジションの最適解を導き出せる映画脳の所有者であることは、それこそファーストシーンの時点から明々白々である。懇切丁寧でない飛躍気味の語りが忍び寄る狂気の予感を漂わせ、一行たりともぞんざいに書かれていない台詞も緊張の糸を引き絞る。 [review] | [投票] |
★4 | クライ・マッチョ(2021/米) | とまれ「イーストウッド×動物」の映画である。クリント・イーストウッドと動物を取り合わせた図像が宝船級の福々しい縁起物であることは『ダーティファイター』以来の公知事項だが、彼の監督兼出演作がこの美質を押し出すのは(西部劇の馬を除いて)稀だった。然り、『クライ・マッチョ』は事件である。 [review] | [投票(7)] |
★4 | 私をくいとめて(2020/日) | 一人芝居/独白劇と二人芝居/対話劇の中間変種。一人が複数の「役」を継起的に演じ分ける多重人格演技とは設計思想を異にし、『her 世界でひとつの彼女』や『スイス・アーミー・マン』と隣接する。よく小技の効いた小さき物語だが、主演者の魅力で堂々押し切るスタア映画としての王道感は大迫力だ。 | [投票(1)] |
★3 | 最後のブルース・リー ドラゴンへの道(1972/香港) | 悲劇の幹に喜劇の枝を生やした(制作順で云うところの)前二作『ドラゴン危機一発』『ドラゴン怒りの鉄拳』からは幹枝が逆転しているが、いずれにせよ抜きん出た身体操作性能の誇示に終始することなく、多くの場面で喜劇的であろうと努め続けてきた志向/嗜好もブルース・リーの映画的偉才に数えられる。 [review] | [投票(3)] |
★3 | 狂武蔵(2020/日) | 疲労表現の迫真性および状況設定にかけて「山の石松一〇〇人斬り!!」の正統リメイクと云える。殺陣が極度にリアルを志向していることは承知するが、とりわけ坂口拓の移動なり剣戟なりを彼の背後から捉えた画面造型はある種のヴィデオゲームに酷似してしまう。給水所や代替刀の点在もその感を助長させる。 [review] | [投票(3)] |
★3 | ホモ・サピエンスの涙(2019/スウェーデン=独=ノルウェー) | 退屈の核心は筋やアクションの不在というより被写体の魅力の欠落にある。どやつもこやつも血色が悪すぎて不気味だ。このメイキャップはゾンビに施される類のそれである。舞台が冥界と解するならば原題「果てしなさについて」も腑に落ち、死者は生前と変わらぬ営みを続けるという死生観が立ち現れてくる。 | [投票(2)] |
★4 | ゆきゆきて、神軍(1987/日) | 奥崎謙三のキャラクタが特異であるだけに、そのありのままの行状を漫然と撮るだけでも珍プレー好プレーの量産が望めそうなところ、それをよしとしない原一男は彼を探偵役に据えた探偵映画として一篇を構想する。「事件」と「探偵の造型」二種の謎の衝突・響応を按配して物語る構造に普遍的な強度がある。 | [投票(3)] |
★3 | フットノート(2011/イスラエル) | ライトコメディとして撮るべき話題にほどよい重みを適宜加えつつ語る企みはそれなりに成功している。しかし「ユダヤ教文献学」「イスラエル賞」といった制作国ならではの素材は他で代替/置換可能の作劇要素に過ぎない。国際映画祭的評価文脈依存度は黄信号が灯っている。と意地悪な奴原なら囁くだろう。 | [投票] |
★3 | ホドロフスキーのサイコマジック(2019/仏) | 善き詐欺師ホドロフスキーの演出大全。生肉散布、南瓜粉砕、身体着色。サイコマジックは総じてお片付けが大変だ。「汚す」「散らかす」は概して文明人が厭う行為ゆえ癒しの糸口もある。などと云えば一理ありげに聞こえるが、同時に映画的演出でもある。こうも集成すると類型化の趨向が気遣わしくあれど。 | [投票(2)] |
★4 | イージー・ライダー(1969/米) | あるシーンの最後のカットと次のシーンの最初のカットが痙攣的に細かく行きつ戻りつしながらシーン移行する繋ぎはいまだに目新しいかしら(模倣する意義のある機会が少ないだけかも)。その酩酊的・運命論的な編集感覚はエディターのドン・キャンバーンよりデニス・ホッパーの主導によるものと思いたい。 [review] | [投票(9)] |
★3 | デッド・ドント・ダイ(2019/米) | 出演者のおおよそは把握したつもりで見に行ったが、エスター・バリントまで出ているなんて誰も教えてくれなかったじゃないか! 不覚にも『カーマイン・ストリート・ギター』を見逃した私にとっては本に久々の再会だ。不敵な表情の可愛らしさは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』から変わっていない。 [review] | [投票(4)] |
★4 | 狼煙が呼ぶ(2019/日) | 「予感」の映画。これを格好よいと認知できたとして、それは多分に切腹ピストルズの劇伴音楽によるが、何が何やら判然しない成り行きを映した画面には何かが始まる濃密な予感だけがむやみに充満していく。いかにも豊田利晃な面構えの連なる中、堂々たる主役の風情を漂わせた佇まいの渋川清彦が感慨深い。 | [投票] |
★5 | ナモの村落:駕籠から撮影されたパノラマ(1900/仏) | 完璧な映画だ。ここ一二〇余年で最大の感動作である。などと云う人がいたとして、私はその者を狂人とは思わない。むしろ握手を求めるだろう。ガブリエル・ヴェールはその履歴がために記憶されるべき存在ではない。アレクサンドル・プロミオさえ凌駕し、ルイ・リュミエールにも匹敵する天才的な撮影者だ。 [review] | [投票] |
★5 | グエムル 漢江の怪物(2006/韓国) | どれほど無茶な行動であれ目的成就に資すると直感したならば、彼/彼女は一片の逡巡もなしにそれに及ぶ。ソン・ガンホ、パク・ヘイル、ペ・ドゥナはもとより、父ピョン・ヒボン、ポン・ジュノ的「受難の少女」たるコ・アソンまでもが徹底して「英雄」である。英雄的行動、その反射性・瞬間性に感動する。 [review] | [投票(8)] |
★4 | 淪落の人(2018/香港) | 言語疎通の不自由こそが交感を、身体の不自由こそがアクションを生む(電動車椅子の二人乗り!)。これが「映画」の脚本であり、演出である。アンソニー・ウォンの技巧と誠実は言を俟たず、クリセル・コンサンジの清澄にも目を奪われたが、サム・リー的人物の創造と配置にも映画の良心が凝縮されている。 | [投票(1)] |
★4 | 恐竜が教えてくれたこと(2019/オランダ) | このように思索・思弁の癖がある少年を、陰気なところのない人懐っこいキャラクタに造型した見識が尊い。おきゃんな少女とよく響き合い、彼と彼女が存分に活躍する限りではどんな物語であろうと面白いに違いないと思わせる。「自転車」「ダンス」「亀」「落とし穴」「屋台」など愉快な細部も揃っている。 [review] | [投票(2)] |