[コメント] 東京ゴッドファーザーズ(2003/日)
今敏が持ち出してくるネタがアニメにふさわしいかという議論はすでに『PERFECT BLUE』の頃からあったが、そのころからの支持者として一つ痛切に感じていたのは、仮に『PERFECT BLUE』や『千年女優』や『東京ゴッドファーザーズ』を実写で撮ったとして、このグレードを下げずに撮りきれる力が今の日本映画にあるのかという疑問だ。海外で名をあげているアート系の監督や、国内の一部で村社会的に評価されている監督が、誰もが普通に楽しめ普通に驚ける娯楽映画を撮れるとはまったく思っていないのだ。
自分が今敏を支持するのは、その作品が堅実に面白く、当たり前のようにサプライズを提供するという映画の伝統的な使命を全うしているからであり、逆に言えば、同じ使命を果たしている邦画が驚くほど少ないと感じているからだ。思想的な部分だとか、単純な好悪であるとかをめぐる議論を封じる気はないのだが、それ以前に邦画の中における脚本家、演出家としての純粋な技量をもっと冷静に評価するべきだと思う。
自分は久しぶりに、年の瀬にふさわしい満腹感を味わった。こんな感覚を味わえたのは、『ダイ・ハード』以来かもしれない。あの映画が持っていた、話が面白いであるとか、演出が派手であるとか以上の魅力、年の瀬独特のお祭り気運を事件の高揚感と絡み合わせる最高の娯楽演出。ベートーベンの第九はもとより、随所に相通じるものを感じて、とにかくワクワクさせられた。
また一方で、親が平気で赤ん坊を殺す時代であることを想うと、「この子は、私が育てる!」と謳ったハナの無謀と疾走も一概に糾弾する気にはなれないではないか。過去長編三作品とも「追うこと、追われること」がテーマで、キャラクターがとにかく追い、追われ、駆けずり回るのが今作品最大の特徴だったと思うが、今回のそれはいつになく温度があった。
都会と家族の温もりと背中合わせの悪臭にむせかえり、そこから逃げ出すも、待ち受けていたのは孤独のみ。だから再び誰かの温もりを求め、走り出す。逃げながら、追いかける――矛盾にのたうち回りながら。捨てたのか、失ったのかも解らなくなったが、少なくとももうこれ以上なくしたくはない。だから走る、ギリギリまで――それは、上手いだけのように見える作家自身の、矛盾と願望そのものではなかったか。この御時世に感情もなく技術のみで捨て子の話を書けるとはどうしても思えず、大団円まで含めて作家の矛盾を越えた世の中への願望と感じたというのは、騙され過ぎだろうか。
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