[コメント] 華氏451(1966/英=仏)
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ジュリー・クリスティの二役起用の真意は今ひとつ呑み込めないが、短髪のクリスティと長髪のクリスティ、どっちも可愛い。
さて、物体としての書物は「紙とインク」によって構成され、その内に「書記言語(文字)」を刻み込んでいるのであるが、この映画に登場するブック・ピープルはそれを「記憶」と「音声言語」に置換する。それらが等価であるとの誤認を敢えて作者自らが演じてみせていることがこの結末を感動的にも空恐ろしくもしている要因であり、ここで感動的で空恐ろしいとは一種の倒錯なのだが、書物狂でもあるトリュフォーがわざわざ自らのお気に入りの書物を燃やしてしまうこと、その書物の燃えるさまに美を与えることがそもそも倒錯的な態度であると云えよう。
ところで、この映画において「タイトルバック」と呼ばれるべき位置に収まっている一群のショットには「タイトル(文字)」で表示されるはずのもの、すなわち題名・キャスト・スタッフ等の「音声」による読み上げが重ねられる。「音声」に収斂していく物語を持つ映画にとってはまことにふさわしく、機知に富んだ開巻の仕方ではあるが、「クレジットが読み上げられること」に対して覚える素朴な違和感は「文字と音声はどちらがより『映画』にとってエッセンシャルな存在か」という問いを投げかけてもくるだろう。おそらく私たちにとって「音声はあるが、ひとつの文字も登場しない映画」を想像することはそう難しいことではない。しかしそう簡単に「音声」のほうがエッセンシャルであると結論づけられない理由として、まず(無声映画における字幕の存在を想起すれば明らかなように)歴史的に早期にフィルムに刻み込まれたのは「音声」ではなく「文字」であるという事実が挙げられるだろう(また私たちは、たとえばボーゼージ『第七天国』における感動的な―「映画的な」と云ってもよい―字幕の用い方も既に知っているはずです)。さらに映画があくまでも「視覚」媒体であると主張するならば、聴覚刺激としての「音声」に対する視覚刺激としての「文字」の優位はより強まるように思えてくる。同時期(以降)のゴダールが映画における「文字」の視覚性の表現を探究していたことも考え合わせるべきだろう。
まあ私としても決定的な答えを持っているわけではないし、答えがあるかどうかさえも知らない。そもそも問い自体が多分にナンセンスなのかもしれない。むしろ私が云いたかったのは、トリュフォーの作品はいつも(トリュフォーのフィルモグラフィ中では決して出来がよいとは思えないこの『華氏451』でさえも)「映画」をめぐる思考を強く刺激してくる、ということ。ゴダールほどではないにしても。
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