[コメント] ゴジラ(1954/日)
「ゴジラとは何か?ゴジラの制作者は常にこの疑問を考えるべきだ。」僕はそう思っている。平成のゴジラ作品の多くが気に入らないのは、そうした考察が足りないと思うからだ。環境問題とか命の尊さとか、メッセージがちらついたりもするのだが、どうもじっくり練られているとは思えないのだ。最悪の場合、「とにかくユニークな敵を用意し、そいつとゴジラを戦わせる」ただそれだけのプロレス映画になっている(まあ、それはそれでまた違った面白さがあるんだけど)。
解釈によっては、「これは俺の抱いているゴジラ像と違う!」ということだってあるだろう(金子監督のつくったゴジラの設定が賛否両論を読んだのは記憶に新しい)。でもそれでいい。何の解釈もされていないゴジラよりも、ずっとましだ。
これまでつくられてきたゴジラ映画や、ファンが議論してきた内容からすると、「ゴジラとは何か?」という問題は、以下のようにまとめられる。
一つは、ゴジラは生物なのか、それとも科学を越えた妖怪なのか、という問題がある。金子ゴジラは妖怪としてのゴジラを描き、他の生物としてのゴジラとは違った設定になっている。だが生物としてゴジラだって、火を噴いたりミサイルで死ななかったり、非現実的な能力を見せており、妖怪としての側面を持っている。エメリッヒのGODZILLAが「あれはゴジラじゃない。」と非難された理由の一つは、妖怪らしさを持っていなかったからだ。
もう一つはゴジラにどのようなメッセージを込めるかである。都市を破壊するゴジラから、あなたは何を感じるだろうか。そして監督はどのような想いを込めるだろうか。それともそんな難しい話は抜きにして、娯楽作品として仕上げることを望むだろうか。これまで多くの作品で、ゴジラは何らかのメッセージを持って出現した。そのメッセージは作品によって異なっているが、大体次の五つにまとめられるのではないだろうか。
「核兵器」「戦争」「科学文明が抱える危険性」「環境破壊」「命」である。
これらは必ずしも別々に扱われているわけではなく、「核兵器」と「戦争」は大抵セットで扱われるし、「環境問題」は「科学文明が抱える危険性」の一分野と言える。
振り返って、第1作目である本作を観てみよう。本作でのゴジラは、ここまでで論じてきた「ゴジラとは何か?」という問題をすべて抱えているのだ。ゴジラは「核の落とし子」である。そしてゴジラは生物だ。山根博士がはっきりとそう解説している。しかしその一方でやはりゴジラは生物を越えた存在として目に映る。ストーリーにしても「大戸島の伝説の怪物・ゴジラが出現する」というものだ。東京を蹂躙するゴジラの姿は、まるで昔話に出てくる鬼神のようである。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあるが、「怪物の正体見たり、ただの大トカゲ」とはいかなかった。まさに伝説の怪物が出現したのだ!
そしてその鬼神は、人間に何らかの罰を与えるために出現したかのようである。繰り返すがゴジラは「核の落とし子」である。その出現によって人々は「戦争」の悲劇を再び体験することになる。人間は「核兵器」を生み出した愚かさを、「科学文明の抱える危険性」を教えられる。また、見方を変えるとゴジラは自然界からの復讐とも感じられる。「ゴジラが出現したのは原爆で生活環境を破壊されたからだ」という山根博士の解説は、環境破壊を連想させる。その山根博士はゴジラの生命力に魅せられた。だが他方では惨劇の中で多くの人命が奪われている。「命」とは何と強く、そしてもろいものなのか。
第1作目からしてゴジラは、これだけの顔をもつのだ。「生物」として描くか「妖怪」として描くか。「核兵器」「戦争」「科学文明の抱える危険性」「環境破壊」「命」、このうちのどれを重視するか。監督や観客によって解釈が違ってくるのは当然のことだ。84『ゴジラ』は「肥大した文明への警鐘」というテーマだった。金子監督はゴジラの「妖怪」としての側面を強め、「核兵器」と「戦争」を重視した。たぶんこれからもゴジラは新作がつくられ、そのたびに違ったゴジラが描かれることだろう。
すべては本作品から始まったのだ。
(今後この「ゴジラとは何か?」という問題を軸に、他のいくつかのゴジラ作品についてレビューを書いていきたいと思います。どれだけ時間がかかるかわかりませんが、今年中には仕上げるつもりですので、気長に待っていてください)
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