[コメント] 生きものの記録(1955/日)
この世に生を受けたものならば本能的な行動を、「異常」として対応する常識的な「私たち」。問題は黒澤監督はどの視点に立っていたのかだ。
妄想狂の父三船を准禁治産者として排除しようと対立した息子たちか、それとも「常識人」の側にいながら父に付いて行こうとした陽気な次女の立場にいたのか?
まさか狂った告発者の三船の側ではないだろう。
そうか、調停委員として関わり合いを持つことになった志村なのか。志村は「常識人」でありながら、三船を理解しようとする。否、「生きもの」の本能としての行動として三船を否定出来ないでいる。
監督はここで致命的な失敗を犯しているような気がする。私が推察するように志村の立場に立っていたのなら、何故に「常識人」たる志村を主役で撮らなかったのだろうか?
本作ではあくまでも三船が主役であり、志村の視点は脇に置かれている。ここは三船演じる老人は「狂言回し」に徹するべきで、「生きもの」として悩む志村を主に持ってくれば、作品に奥行きが出たのではないだろうか?我々も志村と一緒に悩めたはずなのだ。
これではあまりにもストレート過ぎて、某政党のプロパガンダ映画の域に収まってしまう。黒澤映画特有のユーモアもなく、ヒネリもない。それがとても残念で残念で仕方がない。
(評価:)
投票
| このコメントを気に入った人達 (6 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。