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[コメント] 夕凪の街 桜の国(2007/日)

俺が絶対的に信用していない佐々部監督には、この映画で自ら生み出した美点はただの一つもない。稀有な傑作であるこうの史代の漫画を、佐々部は好き勝手に切り刻んで鼻持ちならないお涙頂戴映画に堕さしめてしまった。これは原作者と、観客に対するあからさまな侮蔑である。(付記)2007/8/14、敗戦記念日前日に。
水那岐

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最初に言っておこう。この映画には胸を打つ言葉が多くあり、そして美しい画面も散見される。だがそれは原作者こうの史代と、カメラマン坂江正明の功績だ。けして佐々部清監督の生み出したものではない。

石川七波は、その姓のために幼少時同級生から「ゴエモン」と呼ばれていた。彼女は映画とは違い、原作ではかなりそれを気にしていたのである。「ゴエモン」と呼ばれることによるイメージの固着化。それは七波にとっては心の傷になっていた。

それと同じことが彼女の家族にある。京花は「ヒバクシャ」と呼ばれることで家族に受け入れてもらえない。可愛らしく、何くれとなく老いたフジミの世話を焼いてきた彼女を、フジミは『ヒバクシャ』であるがゆえに旭と一緒にさせまいとするのだ。被爆したフジミなればこそ許される行為だが、それでも旭は、厳然と日本に存在する「ヒバクシャ」だか「クシャトリア」だかのカーストを否定し、彼女を嫁に迎える。これは「ヒバクシャ」などという言葉を平気で弄ぶ似非平和主義者どもには想像も付かないことだが、旭にとっては当然の事だ。愛している相手なのだから。彼の姉・皆実は『父と暮せば』の宮沢りえのようにおのれの幸福を捨て去り、ひっそりと死んでいった。フジミは旭にはその轍を踏ませたくなかったのだろう。しかし旭は七波と、病弱だった凪生を京花に生ませる。そして七波は「この二人を選んで生まれてこようと決めたのだ」とつぶやく。

俺はこの希望に溢れ、時折はコミカルに展開する漫画を、ネガティブな泣かせ話にしてしまった佐々部をやはり認められない。その裏にある、被爆したというだけで広島市民を生きた語り部に仕立て上げ、その当然享受するべき「生きる喜び」を犠牲にさせてまでかれらをいつまでも地獄の入り口に繋ぎ止めておく、そういうやり口にハラワタが煮えくり返る。でも、思ってみれば当然の事だ。佐々部はこの原作を「漫画ではない。文学だ」といけしゃあしゃあと評価し、絶讃したつもりになっている「文化的カースト礼讃者」なのだから。

確かに、原爆の惨禍は伝えられねばならない。だが、原爆を扱った作品総てが鎮魂と平和の祈りをテーマにする必要はない。今を生きる素晴らしさを最後に置いた作品があっていい筈だ。こうの史代は原爆を知らないうら若き漫画家だ。彼女に狭苦しいワクをはめ込もうとするのはむしろ罪悪ですらある。ここにイデオロギーを求めずとも、先達の残した充分過ぎるほどのテキストがちゃんとあるではないか。原爆の惨禍を子供に見せたければ、ディズニーランドに連れてゆくための予算を広島行きに当てろ。その金もないのなら、『はだしのゲン』や『ピカドン』を子供に見せる努力くらいはしろ。総ては了解されるだろう。こんな「ヒバクシャ」追悼に名を借りた泣かせ映画を見せるくらいならば…。さもなくば、こうの史代の漫画を読ませるまでだ。

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現代という時代に危機感を感じ、若い世代に失われてゆく記憶をバトンタッチせねばならない、との意識は理解します。しかしだからといって、本来の作品の価値を疑わせかねない「そこそこの出来」にしか成り得なかった作品さえも、無いよりはマシだ、と支持される態度には「本気でこの時代を憂えているのだろうか」との疑問を感じます。また、別ジャンルの作品に惚れ込んだ凡庸な作家が、それをリスペクトする真摯な態度なくして、勝手に弄り回した作品がある場合、その作品はあくまで「従」であり、オリジナル原作こそ「主」であると自分は愚考します。そのような場合、別ジャンルの作品を同じ俎上に上げることが「愚」であるとするご意見にも賛同しかねます。この原作が、くだんの凡庸な映画監督の作品として認知され、おそらく今後二度とフィルム化されることはあるまい、と「危機感」を覚える自分である以上、尚更のことです。

そして、助成金を政府から貰っているのだから中間的思想に修正せよという方。自分はこれを読んで暗澹たる気分に襲われました。監督は人間です。少なからず偏見をもって当たり前の存在です。人間から生まれた作品に偏見が付き纏わないで、なんで映画が面白いものでしょうか。こういうところから表現の自由は瓦解してゆくのだなあ。ちなみに自分は『プライド・運命の瞬間』は偏向しまくっている作品だと思いますが、そういう作品が堂々と作られることになんら異議を唱える者ではありません。機会があれば酷評したいとは思いますが、それも作品あっての話です。…だいたい『夕凪の街』のどこを叩いたら憲法改正問題が出てくるのでしょう。自分にはとんと判りかねましたが。そして憲法問題の中間的思想とはいったいどんな思想なのでしょうか。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)ぴん[*] ナム太郎[*] おーい粗茶[*] TM[*] 中世・日根野荘園[*] HW 死ぬまでシネマ[*] 夢ギドラ[*]

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