[コメント] ノーカントリー(2007/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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これまでのコーエンの作品群において、サスペンスというジャンル(『ファーゴ』や『バーバー』)においては、「運命のいたずら」が登場人物の弱さや狂気に作用することで物語を動かし、登場人物を「殺害」していた。「運命」または「死神」は「身体」を持っておらず、登場人物に内在するもので、絶対的なものではなかった。ヒトが賢明であれば回避出来たかもしれない、そのスレスレの際どさに愚かさや滑稽、皮肉といった人間臭い作劇の肝を見てきたわけである。
翻って、本作での「死神」は虚構ではなく、現世に客観的に可視化された、逃れようもなく確かな「身体」を持っている。一貫してシガーを指して「彼は幽霊なのではないか」「彼を見た者は死ぬ」といった言及がなされるが、彼が確かに存在することをコーエンが主張していることは、徹底的にシガーの「肉体の破壊と修復」と特異な容姿を捉えるカメラの視線、そして観客である私たちに証人になることを強要する演出において明らかだ。彼が残す「痕跡」のみを撮り、彼を「全く撮らない」ことによってもその不気味さは成立するかもしれないが(いわゆる「文系映画」と揶揄されそうだが)、コーエンはとにかくシガーを執拗に「見せる」。
「彼を見た者は死ぬ」というハレルソンの言及が誤りであることは、彼を「見た」売店の主人がコインの賭の果てに生き残ることや、終盤の交通事故を目撃した子どもとのやりとりの描写において明らかにされる。一見、「ユーモアのコーエン」が「色気」を出してしまったミスともとれるかもしれないが、このシークエンスにおいてこそ、彼が「メデューサではない」ことが証明される。「彼を見た者が皆死ぬ」なら、「目撃者」は存在しないことになり、同時に彼も存在しない、という論理が否定されるのだ。死神は確かに肉体と「ルール」を持って存在し、殺すべき人物を正確に選び、正確に遂行するのだ。この「死神の精度」に、否応なく逃れようのない「死の絶対性」を垣間見て畏怖する。
シガーはデス・ブリンガーであると同時に、死と運命を欺こうとする傲慢な者たちへの「審判者」でもある。シガーの圧倒的な威圧感と余裕の前に、逃げることも出来ずに「座っている」ことしか出来ない人間達。この構図はまさに「裁き」である。
本作はコーエンのフィルモグラフィ上では群を抜いて冷酷だ。主人公のように抜け目なくあっても、またハレルソンのようなユーモアでも死を欺くことは出来ない。特に「ユーモアのある洒脱なハレルソン」への「審判」を描いたことに「ユーモアのコーエン」の意気な覚悟を見た(まあシガーに「ユーモアがない」ことがかえって「ユーモラス」に見える瞬間が多々あるのも事実なのだが・・・)。絶対的な死を人間の身体を借りて撮りきったコーエンの特異な傑作である。贅肉の一切ないサスペンス描写のキレ(完璧な「間」!)など今更乏しい言葉を借りて私が語るまでもない。
しかし、シガーが強固に幽霊であることを否定し、その肉体性と特異性を誇示して輪郭を強調したことによって、"No country for OLD MEN"という原題の意味に込められたテーマ性はむしろ弱体化したように感じる。現代において凶悪事件を報道するニュースで頻繁に耳にする「何であんな温厚でフツーの人が・・・信じられない」といった隣人のコメントに近似する感想を抱かせてこそ、つまり理解を超えた凶悪性に「シガーの造詣が陳腐であること」による「匿名的な普遍性」を持たせることによってこそ、理解不能な悪の拡散と死の蔓延に絶望するジョーンズの語りへの今日的な共感に強度を持たせることができたのではないか。その意味では輪郭は強固でも匿名性、象徴的な普遍性に徹した同年の傑作『ダークナイト』の悪の伝道師ジョーカーにシガーは敗北している。
・・・まあ、そんなことしたら映画的なケレンもヘッタクレもなくなってしまったでしょうけども。痛し痒しという感じでしょうか。これでも十分ですけどね。
2007年〜2008年という年は勝手に私が名付けた★5の暗黒三部作(本作、『ダークナイト』、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』)がアカデミー賞にそろい踏みした「異常な年」ですが、実に収穫の多い素晴らしい年だったと、後年も記憶すると確信しています。
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