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[コメント] マイケル・ジャクソン THIS IS IT(2009/米)

僕は今まで、「自ら選んだ形で」マイケルを好きだったことは一度もない。「好きなアーティストは?」と尋ねられて「マイケル!」と言ったことなどあるわけもない。
Myurakz

 にも拘らず、いつの頃を振り返ってもマイケルに伴う記憶というものがある。小学生のときに知人のお姉さんが貸してくれた「Thriller」のビデオは、僕が生まれて初めて目にしたプロモーションビデオだった。マイケルの名前を聞いたのもこのときが最初だったと思う。中学のとき、街の電器屋で見た「We are the world」。僕はこれでシンディ・ローパーに夢中になったんだけど、それでもやっぱりマイケルだけは別格だった。そもそも一人だけ映像に紗がかかってて、それだけで「さすがマイケル」とか思っていた。高校のときは友人の「チケットが余ってる」との誘いで東京ドームのBADツアーに行った。外野席から見る2cmくらいのマイケルはそれでも存分に格好良くって、僕は翌日みんなに「マイケル超カッコいい」と話して回った。

 思い出せば切りがない。映画館に行ってもディズニーランドに行ってもゲーセンに行ってもマイケルはいた。そして何より、僕はこれらのマイケルを「価値のあるもの」として受け取っていた。大衆の支持を得るスーパースターっていうのは、要はこういう存在のことなんだろう。

 僕はスーパースターというのは「ポジティブに異形な人々」だと思っている。甲子園決勝の9回裏二死満塁で堂々とホームランを打ててしまうような人のことをスターと呼ぶなら、スーパースターとはそういうホームランをあちこちで何本も打って回っちゃう人なんだ。何なら野球もしてないのにホームランを打つ。それはもう確実に「異形の者」であり、ただそれが尊敬や憧れというポジティブな感情を抱かせるが故に、その人はスーパースターとしての存在を許されることになるんだ。

 マイケルはそんな「スーパースター」と「異形」のギリギリの境目に立つ人だった。そして晩年は完全に「異形」の側に落っこちてしまっていた。だけどだからと言ってマイケルのスーパースターたる所以が失われてしまっていたのかというと、そうではなかったんだ。彼は世間の評価故にその立ち位置を失ってしまっていたけれど、それは必ずしも彼のスター性の消失と同義じゃなかった。だからこそ僕らはこの映画を観て、「憧れの対象となり得る異形」を目にする興奮を抱くんだ。それはどこかに僅かながら見世物小屋的な気分も含んだ、だけどそれ以上に「“何だかわかんないけどスゲえ”に屈服する心地良さ」が支配した感情だ。スーパースターであるマイケルがスーパースターというポジションを返してもらうためのイベント、それがこのライブだったんだと思う。

 彼は言う。「ファンの望むことをやりたい」。そして彼は収録時の雰囲気を徹底的に再現しようとする。こういうとき、普通のアーティストだったら「2009年の自分を見せる」とか言って新しいアレンジなんかをやりだすはずだ。だけどマイケルはファンが喜ぶ「昔の自分」を変わらずに打ち出そうとする。そこには彼の圧倒的な自信という“強さ”と、スーパースターという拠り所なき存在の“弱さ”が同時に見え隠れする。大衆の頂点に立ちながら大衆の下に立ち位置を模索する異形の輝き。そんなもん何時間観たって面白いに決まってるじゃないか。そしてそんなマイケルが、死の直前に前を向いた気持ちを抱けていたということだけで、大衆たる僕はちょっとだけホッとするんだ。それだけでも十分意味のある映画だったと思うよ。

(評価:★4)

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