[コメント] 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を(2009/香港=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
食事を通して描かれるコミュニケーションと、銃撃戦という対比では、ジョニー・トー作品としては『ブレイキング・ニュース』の方が好みであるし、銃撃シーンでのスローモーションの多用がしつこすぎるのは気になるが。
娘・アイリーン(シルヴィー・テステュー)に重傷を負わせ、その夫と二人の子どもを殺害した三人組への復讐を行なおうとするコステロ(ジョニー・アリディ)は、銃の達人でありながら二十年前に銃を捨て、シェフになった男。彼が偶然遭遇した殺し屋三人組(!)に復讐を依頼したのは、娘が、自宅を襲撃した三人のうち一人の耳を銃で撃ち抜いたと教えていたからだ。つまり、三人ともに耳に異常のない三人組は、殺し屋ではあるが復讐の相手ではないのだ。これは、最後の銃撃戦に先立って、敵のボスであるジョージ・ファン(サイモン・ヤム)にシールをペタペタと貼りまくって標しを付けていたことにも似た意味合いが認められる。
シール貼りのシーンでの、ビッグ・ママ(ミシェル・イエ)がファンを誘惑するかのように見せかけ、そのせいでファンが、彼女の前で善人ぶろうと、群がる子供たちからシールを買いまくることや、目的を達して席を立つビッグ・ママが、膨らんだ腹を見せ、母であることを誇示することで、女であることをファンに対して拒むこと、コステロが待機していた車にビッグ・ママと子供らが戻って報告をする様子など、この擬似家族的な協力関係が涙ぐましい。
このシーンでファンは、部下に警護されつつ一人で食事をしているところだった。ビッグ・ママは、彼から食事の誘いを受けそうな状況を作って利用しつつそのまま彼を置き去りにする。コステロは銃を捨ててシェフに。彼の娘の家族は、食事の準備を彼女が整え、皆が家に戻ってきたところで襲撃を受けた。コステロが、復讐を依頼した三人組を連れた家に入ったとき、準備されていた食事には虫が這っている。それを片付け、冷蔵庫に入っていた食材を使って、暴力によって永遠に中断された「食卓」を再生するコステロ。コステロの娘家族を殺した三人組に会いに行くシーンでは、この三人組もまた家族と共に、バーベキュー(=食事)を始めるタイミングで、それ故に、銃撃戦は一時留保される。コステロの体に食い込んだ弾丸を取り除く手術シーンでは、麻酔代わりの酒が回し飲みされる。クワイ(アンソニー・ウォン)の親戚が襲われ、今わの際にその老人が言い残す、銃弾の隠し場所は、冷蔵庫や鍋やエアコンといった家庭用品。それをテーブルに並べるクワイ三人組。コステロがクワイ三人組と食卓を囲むシーンでは、目隠ししての銃の組み立て競争や、食事の皿を投げて銃の標的にするアクションが見られるなど、食事や、テーブルを囲むという行為は常に、様々な形で銃の介入を受ける。
コステロ&クワイ三人組と、敵の三人組が夜の森で撃ち合うシーンでは、月が雲に隠れ、月明かりが再び射すまで七人の動きが停止する箇所があるが、この、相手の顔を確認する、という行為は、上述した、撃たれた耳やシールといった標しの他、記憶障害に備えてコステロがメモ付き写真を携帯していることなどと同一系列にある。そして最後には、コステロがファンのジャケットを撃ち抜いた痕が、ファンが脱ぎ捨てたジャケットを再び彼に着せてファンの服の銃弾痕と合わせるという形で人物確認の標しとなる。つまり、あらゆる標しは標的に弾丸を撃ち込むために用いられていたのだが、最後には、銃弾を撃ち込むという行為そのものが、標しづける行為となる。銃殺や復讐というテーマは飽く迄も、家族とか記憶といったテーマに従属するものであることが見てとれる。
顔の確認といえば、そもそもアイリーンの二人の子らが殺されることになったのは、隠れていたクローゼットが開けられてしまい、襲撃者の顔を見てしまったからだ。顔を記憶することが死と直結するという事態がまず始めにある。だが、クワイ三人組は、ちょうど暗殺を済ませた直後に顔を見られたコステロを、殺すことなく見逃す。帰りの車内で「あいつも殺しておくべきだった」という意見が出るなど、そこは本当に紙一重の判断だったとも言える。子供らが殺されるシーンでも、クローゼットに二人が隠れていることに気づいていたと思しき男が、「開けるな」と注意する台詞があったのだが、一瞬それが遅れたせいで、二人は射殺されることになったのだ。そして本作は最後に、記憶を保ち難くなったコステロが、ビッグ・ママや子供らと共に食卓を囲み、新しい家族と顔を見合って笑う光景で幕を閉じる。つまり、顔を見るという行為が、死と繋がる必要性から完全に解放されるという事態を目指して、この映画は突き進んでいたのだ。
ビッグ・ママが大勢の子供らと食卓を囲む海辺は、どこか『ベニスに死す』の海水浴場を思わせる彼岸性が漂いながらも、そうした世界の縁で慎ましい大家族の営みが淡々と続いていくことの安息感が、画面から染み渡ってくる。とはいえ、記憶を失いつつあるコステロが、夜の海で記憶の中の人々と遭遇する幻想シーンは、強烈な青い月明かりを背に受けた人々が歩み寄ってくるイメージなどが仰々しすぎて、殆ど『未知との遭遇』状態となっており、ちょっと過剰だろう。まぁ、森の銃撃戦での月明かりを反復しているともとれるが。銃撃シーンのスローモーションの過剰と併せて、トーは、画面を劇的にしようとコントロールしすぎに思える。画面の制御が作品世界と合致しているのなら構わないが、本作の場合むしろ、現実の暴力の唐突さと、取り返しのつかない決定性を感じさせる銃殺シーン(カットの突発的な挿入、煙のように噴出す血飛沫、銃撃音)や、森で月明かりが戻るのを待つまでの待機時間など、現実の時間の息遣いが感じられるシーンの方がよほど印象的であったので、変に画面を人工的にするのは適切ではなかった。コステロの記憶が失われる様子も、徐々にそれが進行していく過程を演出するに至らず、ファンの手下らの襲撃から逃れるシーンで唐突にそれが起こってしまう(雨の中で呆然と立つコステロの姿には『ブレードランナー』を想起)のも、脚本を都合よく処理しすぎに感じられた。
クワイ三人組が絶命する、廃棄物置き場での銃撃シーン冒頭の、立方体に圧縮されたゴミを転がして進む襲撃者たちが遠方から包囲網を縮めてくる光景は、『座頭市』(1989)の大樽に次ぐインパクトを受けた。それを遠方の高所から見物するファン。銃撃戦に加わっている者たちは皆、結局は使い捨ての雇われガンマンとして、同じような存在、廃棄物と変わらぬ存在なのだ。
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