[コメント] パリ20区、僕たちのクラス(2008/仏)
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さも「パリ下町の学校における日常を切り取っただけ」といった風情を装うこの映画にあって、最も劇的な出来事は教師が女子生徒に向けた「ペタス」なる不用意な一語によって引き起こされる。「言葉」の映画とは、「音響としての言葉」とともに「言葉の力学」の映画という意味である。「言葉は政治的である」と云ってもよい。たった一語の「ペタス」が女子生徒を傷つけ(しかし大騒ぎをする彼女が本当に傷ついたのかは必ずしも判然としない描かれ方である。それは、ここで演じられているのが「政治」だからにほかならない)、また別の男子生徒の暴走を誘発し、教師を窮地に立たせる。テクストの朗読(=教師が要求する言葉の発声)の拒否が「ストライキ」であると教師-生徒間で理解が共有されていることも言葉の政治性を端的に示した事例だろう。
教師と生徒では立場が違うという。当然である。ここでも国語教師が幾度かにわたってそれを強調する。しかし、殊にひとつの教室で繰り広げられる「言葉の政治」という地平から眺めたとき、教師と生徒は残酷なほどに平等である。教員会議に生徒代表として出席した女子生徒二名は不謹慎な態度を隠そうともせずに笑い声を漏らす。何がそんなに可笑しいのか。それはひとつに、教師の間で展開されている政治が自分たち生徒間におけるそれとあまりにも同じだったからだろう。したがって、逆に云えば、政治において教師と生徒がともに従うべきただひとつのルール=「言葉」を逸脱して(故意ではないにせよ)「身体的」暴力に及んだ男子生徒が、退学と称して「教室」という名の政治世界から追放されるのは言葉の映画『パリ20区、僕たちのクラス』にとって避けえない帰結である(教師が生徒に向かって云う言葉としては「ペタス」は相当に非常識な語であるようだが、それもまた言葉である以上、発言者たる国語教師は政治のルールを踏み外してまではいない。ゆえに彼が何らかの懲戒処分を受けた形跡はない)。
以上に述べてきたことを踏まえて云えば、この映画において感動的なのは政治の境界線に立つ者たちのありさまである。フランス語にじゅうぶん習熟していないという中国系の少年が、それゆえに一語一語に意識を研ぎ澄ませねばならないさま。普段は寡黙なゴシック・ファッションの少年が自身の主張を毅然と表明するさま。退学させられることになる少年がフランス語をまったく解さない母親の通訳を務めるさま。彼らを除くほとんどすべての登場人物は「言葉は政治的である」という命題を自明のものとして政治ゲームを生きることができる。むろんその命題の適用範囲は彼らにも及んでいるが、しかし彼らにとってその政治はゲームではない。命懸けのものである。その命懸けの姿が見る者の心を揺さぶる。
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