[コメント] 湯を沸かすほどの熱い愛(2016/日)
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その最たる例が、結末部において宮沢りえの肉体に施される処置だろう。これら観客の敬遠を招く恐れもある標準的な価値観との偏差には、さらなる感動の可能性を探求する中野の発想と技術が結実している。
また「中野の映画は水から離れすぎてはいけない」あるいは「水から活力を得ている」という記述も、どうやらいくばくかの妥当性を持つようだ。演出家がいかなる作劇でもって各シーンの画面に水分を補給していったかを逐一検証することはしないが、死者が死してなお水と関係せずにおれないのは『チチを撮りに』も同様で、『湯を沸かすほどの熱い愛』にとって欠くべからざる「しゃぶしゃぶ」「タカアシガニ」「沸湯」が「水」とモティーフ・カラーである「赤」の交差点に位置する細部だということは記しておく。 (※)
ところで、病床に伏せる妻に、夫は窓越しから何を見せてやるべきなのか。むろんこれは一般的な問いではなく、映画的なそれである。オダギリジョーが宮沢に見せたのは云うまでもなく「ピラミッド」なのだが、ここでピラミッドとは「公権力の文化的遺産」とでも抽象化しておくことができるらしい。なぜそのようなことが許されるのか。何かしら合理的な理由があるのではない。しかしながら、この映画からかっきり一週間後に封切られたエイドリアン・クワン『小さな園の大きな奇跡』を併せ見た観客はこれを体験として理解するはずだ。
(※)もう一点、次のシークェンスにだけは触れておこう。宮沢が杉咲花と伊東蒼を伴って発つ旅行先が「港町(沼津)」であるのはなぜか。むろん表向きにはそれが「タカアシガニ」目当ての食べ道楽の旅だからであり、また杉咲と実母・篠原ゆき子(篠原友希子)を再会させるのが宮沢の真の目的だからだが、劇に「水」を呼び込まんとする中野の画面的欲望をそこに見て取るのは早計や牽強とするべきだろうか(篠原の居住地である「沼津」も、彼女が宮沢家に毎年欠かさず贈っていた品物である「タカアシガニ」も、作劇上の必然性という観点から云えば他で代替可能の変数に過ぎない)。加えて云えば、この旅の途上で宮沢は赤の水であるところの「血」を吐き、杉咲と篠原の面会中、宮沢と伊東は「水族館」に赴くだろう。
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