[コメント] 沈黙 -サイレンス-(2016/米)
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いい悪いではないけど、同じ宗教を描くにしても『最後の誘惑』や『クンドゥン』のように、神話的な人物であっても、あえて俗っぽく(人間ぽく)描くスタイルのほうが監督の味が出るように思う。もし監督がもっと若い頃にこの原作を映画化したら、「信念を捻じ曲げられる」という暴力の在り様に傾注し、『切腹』のような映画になったような気がする。SEでとにかく多用されるヒグラシの声を思うと、もともと監督の撮りたい映像イメージは、「理念」と「情」の対立という『切腹』があって、『切腹』の御白州の場でもさかんに鳴いていたヒグラシの声がもう「理念」と「情」の対立という図式と分かちがたく結びついていたのでは…とか思ってしまった。
あえて「自分的なアプローチ」を控え、原作に忠実たろうとする姿は、良くも悪くも歳をとった映画監督の作品という印象だった。キチジローへの嫌悪感や、井上筑後守の酷薄さなどに、原作以上の感情は持ち込まないように制御して演出する方針を貫いたような…落ち着いた情熱…というか。
十字架で処刑されたイエスが発した「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか=なぜ苦しんでいるのに助けにきてくれないのですか)」という「神の沈黙」というテーマは、キリスト教でも難しいテーマだけに(と認識してます)、さすがにこの作品でも解答が出てくるわけではない。遠藤周作の原作は昔読んで今はあまり覚えてないが、宗教的テーマに正面から解釈を試みる、というよりは、歴史小説のひとつとして、「棄教」における当時の信仰のあり方の掘り起こしのような感じであって、やはり「沈黙の謎」そのものの答えにせまるといったものではなかったように記憶する(記憶なので違っているかも知れません)。で、スコセッシ監督はさらにそういった観念的なテーマにはもともと興味がなかったように感じる。
なので暴論だが、最初に映画化しようとした時の動機は、もっと人間の理念と感情のはざまで起こる暴力を描こうとするもので、それがなかなか映画化できず、実現できたときは、若い頃の情熱が監督自身の中で良くも悪くも、もっと客観的な抑制されたものになってしまったような、なんかそういう「何がしたかったの?」感を感じる仕上がりになってしまったような気がするのだ(…すべて私の勝手な思い込みです、監督すみません)
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