[コメント] 燃ゆる女の肖像(2019/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
テクニカルな話をします。 5つのポイントについて書きますが、2つは私には読解できませんでした、ということを書きます。
映画前半、カメラの切り返しが多用されます。 おそらく「描く者と描かれる者」言い換えれば「見る側と見られる側」を、一つのフレームに収めることはほとんどなく、それぞれカメラが切り取ることで表現しようとしているのでしょう。 そしてそれは、見る側と見られる側が実は「対等」といった台詞にも通じるのです。
さらに言うと(私の記憶違いでなければ)BGMがありません。 劇中に初めて音楽が流れるのは、祭りでのコーラス。 そしてここから映画が動き始めるのです。
まず、カメラが動きます。 それまで多用してきたカットバックは鳴りを潜め、カメラ自身が移動して二人をとらえるようになります。 これは、二人の気持ちが動き出したこと、物語が動き出したことと連動するのです。
ここまで<カメラ><音楽>の2つのポイントについて書きましたが、ここから先、私が読み解けなかった2点について書きます。
1つ目は<男性不在>について。 主人公の女性画家が、男性が漕ぐ船で島にやってきます。屋敷内に男性が登場するのは終わり近く。主人の従者でしょうか。主人が戻ってきたことを示しており、すなわち女性画家がこの地を去ることを意味するのです。つまりこの映画に登場する男性は、女性画家をこの場所に運び、去らせる役目を担っているのです。
画家にはもう一人男性が関わります。父親です。彼女は会話の中で何度か(私の記憶では3度)父親のことを口にしますが、その実像は描かれません。 他も同様です。令嬢の婚約相手も、メイドを妊娠させた相手も、一切描かれません。
2つ目は<火と水>。 女性画家は船から落ちた画材を取り戻すために海に飛び込みます。 令嬢は自ら望んで海で泳ぎます。 この2シーン、実は無くてもストーリー上問題ないのです。無くてもいいのにわざわざ描いているということは、作者に意図があるということです。
上述した<男性不在>も、確実に意図されています。 これらに意図があることは分かりますが、その真意は何なのか、私には正解が分かりません。
「火」についても触れましょう。
令嬢は3度焼かれます。 前の画家が描き残した顔のない肖像画。祭りの際のドレス。そして、いつ描いたか分からない絵画「燃ゆる女の肖像」。おそらく、この絵の中で燃やされている肖像画は彼女だと思うのです。
最後のポイントは<オルフェ>です。
展示会でしょうか、女性画家は老人に話しかけられます(彼も男ですが、映画は巧みに「老人」という記号に置き換えています)。 彼女は父の名義で自分が書いたと言い、老人は「こういう視点で描いたオルフェは初めて見た」といったことを言います。 私はここに、女性監督セリーヌ・シアマの強い意志を感じます。 男の影にならざるを得ない女性。しかし、女性ならではの視点がそこにある、と。
<オルフェ>の話を続けます。
画家は、屋敷を去る際にオルフェの如く「振り返り」ます。 一方、2度目の再会の場面、令嬢は「振り返り」ません。 思い返せば二人の出会いは、走る令嬢の後ろ姿を追い、並んで海岸に立つ横顔を盗み見ていたのです。その時と同じ左の横顔を見せたまま、決して振り返らない。 場所はコンサート会場。この映画2度目の<音楽>。曲はヴィヴァルディ「夏」。 いや、本当は3度目だ。 「オーケストラを知らない」という令嬢に、画家がチェンバロ(あれはピアノではないと思う)で弾いている。あの時と同じ曲。その思い出の曲が、2度目の再会のコンサート会場でオーケストラで奏でられている。でも、彼女は「振り返らない」。
ものすごく読み解き甲斐のある映画でした。
(2020.12.05 kino cinema立川にて鑑賞)
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