[コメント] パリ、テキサス(1984/独=仏)
「愛し合う」という精神的な繋がりでしか存在し得ない「夫婦」という関係。年の差があろうが、美醜の差があろうが、他人からは二人が夫婦であるかどうかは判別できない。
見た目で判別できはしないが、夫婦はそれを言葉や態度で表現する。何も人前でべたべたする必要はない。他人はそれとなく二人を夫婦と識別することだろう。
だが、互いを表現(主張)しなくなった夫婦は「他人」の関係に後退する。互いの目を見つめて表現が出来なくなる。ガラス越しでなければ、互いに背を向けなければ、本音を話せなくなる。彼等のように。
それでは二人の間に出来た子供はどうだろう。見た目は親と似ている。どう見ても二人の子供だなというぐらい似ている子供も多い。自ら主張しなくても他人はそれと識別する。
4年間離れていた男と女にはマジックミラーが必要だった。だが親に見捨てられ、親の顔さえ忘れた少年は父を受け入れ、母とすんなり抱き合った。どんな状況にあっても「血の繋がり」は後退しないのだろう。
他人から見て、「夫婦」と判別出来かねる男女も、二人の間に子供が立つと容易に「家族」と識別出来る事が多い。男女のそれぞれの特徴をどこかに引き継いだ子供が、他人である男女が夫婦であることを「必死」に訴えているようだ。
この作品ではハッピーエンドは用意されていないようだが、男と女そして少年の三人が揃ってこそ「夫婦」であり「家族」が完成する。
翻って我が家を想う。子供がいなくとも夫婦と判別してくれるだろうか?マジックミラーは我が家に無いが、背を向けて会話をしていないか?私には砂漠を彷徨う勇気はないし今の日本に「パリ」なんかないのだから。
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