[コメント] Z(1969/仏=アルジェリア)
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実際に起こった、国家ぐるみの犯罪を告発した映画である。出資したジャック・ペランから俳優陣まで、相当な覚悟が必要だったろう。ひょっとして刺客がおくりこまれるかも・・なんて危険もあったかもしれない。それゆえ、この映画のときに爆笑させられるほどの余裕たっぷりの演出には驚かされる。暗殺に直接手を下した犯人をコメディリリーフにするなど、ちょっと普通では考えられまい(特にヤゴが検事の誘導尋問に引っかかるシーンは何度見ても笑わさせられる)。 私は、この「余裕」にこの映画を作ったことへの並々ならぬ覚悟を感じてならない。時代背景は遠のいても、この映画の輝きを失わない、力強さの証であろう。 この映画の特異な「強さ」は演出とミキス・テオドラキスの音楽、ラウール・クタールのカメラの3つの天才的な仕事ぶりがガップリと組み合ったことによる。このような関係は他の映画でそうは見る事はない。まさに奇跡的な出会いである。 特にクタールの映像は地中海の明るい陽光を基調にしながらも、同時に微妙な陰影をそこここに醸し出しており(部屋から外へ出るまたはその逆、内側から外を覗く、といった行為に顕著に表れる)、舞台となった国の表面には現れない不安を表現している。それでいてひとところに留まらず、居合せたジャーナリストのごとく精力的に動きまわるのだから、大したものである。 もうひとつ指摘しておきたいことは、冷静で皮肉とも見える客観性である。一見、単純な左翼的な社会派映画の展開を借りているものの、正義の側であるZ氏陣営の人たちの個性はあまり感じられない。シンパの人たちは学生や若い人たちだが、なんとも軽い扱い。それに対して「王党派」の人たちの(善悪は別にして)人間臭さには圧倒される。笑い、怒り、哀しみの表現のほとんどが、悪玉のたち人が担っているとは皮肉だ。 彼らは例外なく貧困に喘いでいて、その貧困ぶりを映画は克明に描いていく。それは圧政が原因なのだが、その生活苦と無知ゆえに当の政府のいいなりになり、ダーティな仕事を押し付けられる。いちじく売りの男はは議員を殴り殺そうとした凶悪な当事者だが、検事にアリバイを見破られると、借りてきた猫のように豹変してしまう。 いちじく売りは小鳥を飼うのが趣味の、結構いい奴だった。普通の庶民をこのように凶悪な行為に駆りたてる権力者たちには怒りを禁じえないが、ファシズムとはこうして生まれるであろうことが肌で感じられる。 はたしてZ氏陣営に彼らを救うことができたのだろうか?私にはZ氏たちの目に、彼らは全然写っていなかったのではないかと思える。 Z氏はインテリで、スポーツマンで、正義漢で、そして何よりも金持ちだ。いちじく売り(または私)から見れば雲上の人。彼らは、そんな人が唱える民主主義に本能的に嘘臭さを感じ取ってしまうのだ。70年代後半から資本主義国の左翼陣営は世界的に退潮したが、彼らはそこのところを分かっていたのだろうか?この映画はそこまで予言しているような気がするのだが、深読み過ぎるだろうか。
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