[コメント] ベティ・ブルー/愛と激情の日々(1986/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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破滅的に人を愛することができるのは暇な人間だけだ。
今も昔も思春期前後の少女に奇行が目立つのは、そいつらは単に暇だからだ、と私は思っている。暇であるから、彼女らは物事に全精力を注ぐ。もちろん大人はそんなに暇ではないから相手をするにも限りがある。ベティーのことをエキセントリックな不思議ちゃんと大人の男たちは断罪する。最後まで彼女と向き合い続けた、と称されるゾーグでさえも、彼女の行動に引いていたのは確かだ。そんな世界で、ベティーにとって人間関係は、スポンジでできた壁にボールを投げ付けるようなものだ。どれほどの力でボールを投げても壁はその力を柔らかく吸収してしまい、こちらへボールが小気味よく戻ってくることは決して無い。
エキセントリックと称される少女達は、何をしていても、時間に忙殺されない感情を持っている。
年上の恋人が、明日の飯のために馬車馬のように働いている姿はもちろん理解できないし、生きるための賢い手段として、彼の自分に対する気持ちが序々に冷静なものへと変わっていくのに耐えられない。
この映画については、往々にして、ベティーの奇行と、愛がゆえにそれに寄り添い続ける男、という図式がクローズアップされるが、私にはラストのゾーグという男の変化に、この映画における二人の愛、というものを感じた。 ラストで彼のとった行動は、今までの彼の言動から予測できるものから大幅に逸脱していた。薬漬けになって前にも増してヤバイ目をしてるベティーを前にして、もういいかげん愛想が尽きたのか?そうでないのは誰もがわかっている。
何より怖いのは嫌われることではなく、自分の存在を忘れたまま相手が生きていくことなのだ。
彼らの過ごした時間を観ると、そう感じずにはいられない。ベティーは時に愛するゾーグの名誉を叩き潰し、時に自分の身を傷つけ、馬鹿騒ぎを繰り返しながら、自分の存在を誇示し続ける。 そしてゾーグは、薬漬けになって感情を失い、自分のことも判別できなくなったベティーの死を願う。
人を愛することは素晴らしいことだが、この映画には、強烈な悲しみがある。それは切なさ、をはるかに超越した、痛みそのものとも言える。そしてこの痛みこそが、日々の忙しさに忙殺されて自分が見ないようにしていることなのかもしれない。
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