[コメント] 八月のクリスマス(1998/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ある意味、この『八月のクリスマス』には無駄なシーンはひとつもない。この『八月のクリスマス』という映画自体が静かに呼吸し、静かに息絶える。そして、僕の心に思い出となって生き続ける。
よく言われることだが、人は死ぬ直前に走馬灯のように過去の記憶を視覚化するという。考えてみれば、死ぬ前でなくとも、普段、何かを思い出すとき、何かエピソードを思い起こすとき、そのドラマの中心からではなく、自分にとってはあまり意味のない、なにげない日常の瞬間から呼び覚まされるものではないだろうか。
この映画のシーンひとつひとつが、ハン・ソッキュ演じる主人公ジョンウォンの記憶の断片、ありふれているけれど、かけがえのないカケラひとつひとつなのだ。
bunqさんも仰ってるが、カケラひとつひとつを、砂浜で貝殻を拾い集めるようにして、ひとつの画、ジョンウォンというひとりの記憶へとつむいでいくからこその作品であって、テレビドラマでは決して成立しないと、僕は思う。また、拾い集めた貝殻を海に返すその波の余韻は、テレビでは生まれ難い。
ペペロンチーノさんが触れられているように、僕も小津安二郎監督の映画を思い出した。僕は小津作品をそれほど数は観ていないが、もし小津監督が黒澤明監督の『生きる』のようなテーマで映画を撮るとしたら、たぶんこの『八月のクリスマス』のような作品になったのではないだろうかとも思う。
このひとつひとつのカケラについては、くたーさんが挙げてくださってるし、ここに僕の思いを綴ることは、みなさんそれぞれの行間への思いを壊してしまうことになりかねないので、何も言わないことにしたい。
ただ、俯瞰的にひとつだけ。
生きていくことは、ある意味、「からまる」こと、「もつれる」ことだとも言える。鞄の中でいつのまにかウォークマンのイヤホンが"からまって"いるように、裁縫箱の中でいつのまにか糸が"もつれている"ように、春の陽射しの中で藤の蔦がいつのまにか"もつれあう"ような、「綢繆」(ちゅうびゅう)。
ジョンウォンは、死の足音を聞くことができたから、その"からまり"や"もつれ"をゆっくりと"ほどいて"いこうとしていたのではないだろうか。そして、世界と自分がゆっくりと"ほつれて"いく、その哀しみと無常を知っていたから、誰かと接するときは、菩薩のようなあの笑顔だったのだと思う。そして、ひとりになった時、その笑顔は消え、"ほつれて"いくその無常に涙にならない涙を流していたのだとも思う。
そして、彼が遺影のためにカメラに対峙したときの、あのひとりの笑顔。今ココにいる自分と、未来ソコにはいない自分を、この写真を通して見つめるであろう愛する人たちへの笑顔。サヨナラの笑顔。去年観た、僕が愛してやまない映画『ココニイルコト』の"笑顔"を思い出した。
「八月のクリスマス」。<世界>と"ほつれて"いく途中にあるジョンウォンが、八月、シム・ウナ演ずる女性タリムと出会うことで、もうひとつの<世界>に生まれる。記憶がはじまる。きっと、それが八月のクリスマス。そして、夏が過ぎ冬を迎えるまでに、その世界との「綢繆」も、また"ほどいて"いかねばならない運命を知っていたから、手紙へと思いを綴り、彼女の日常に手を重ね合わせ、"ほどいた"のではないだろうかと思う。
胸が切れた。
〔★4.5〕
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追記:
コメントの"recollection"とは、「想起、回想」という意味と「心の平静、沈潜」という意味があります。"re-"「再び」"collect"「集める」という語感がぴったりだと思ったので使いました。英語嫌いな方、すみません。
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心にしみいる映画、教えてくれてありがとう、くたーさん。
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