[コメント] アメリカン・ヒストリーX(1998/米)
この映画は「いい」作品だ。「良心的」と言ってもいいだろう。
まず映画の物語の構成をみてみる。
主人公の弟の目線で物語りは語られる。その事によって他者の視線で冷静に物語を語れることと弟のレポート「アメリカン・ヒストリー・X」=「X世代のアメリカの歴史」を語れることに成功している。
次に映像的にみてみる。
モノクロとカラーの使い分けによって過去、現在、兄、弟の視線を明確に分けれる。これによって映画を一本の時間軸、一人称だけでなく多角的な豊かなものにしている。
そしてスローモーションの使い方。兄が警察に捕まるシーン、家の前の星条旗がなびくシーン。ゆっくり正確に観客の目に刻み込まれる。
そして最後に俳優の演技。
主人公である兄「エドワード・ノートン」の演技は恐ろしいぐらいの気迫と、前半と後半の「変化」が素晴らしい。監獄でのシャワー室でのレイプシーンははたして他の俳優でできる人がいるだろうか。日本の俳優、ハリウッドでもなかなかやれる俳優はいないだろう。
「物語の構成」「モノクロ、カラーの使い分け」「スローモーション」「俳優の演技」
この映画は全てにおいて完成度が高い。しかしそれは「映画芸術的」な完成度ではなく「見せるための技術」の完成度だ。 この技術によってとてもわかりやすくひとに「メッセージ」を伝える。 この映画はその「メッセージ」を伝えることが一番重要だったと思う。
その「メッセージ」は「差別」。
この映画は「差別」が溢れている。
主人公が家に入ってきた黒人の泥棒を殺す。 主人公の親が仕事中に黒人に殺される。 街に溢れている黒人からバスケットコートを奪い返す。 白人至上主義のメンバーになりメキシコ人のスーパーを荒らす。 弟が学校トイレで黒人にいじめられている白人を助ける。 母親の愛人のユダヤ人にひどい事を言う。
「差別」「憎しみ」「差別の連鎖」「憎しみの連鎖」。
この差別は「社会」「貧困」「無知」が生み出しているものだろうか。
私は何気ない会話の中にこの差別の芽が潜んでいると思う。 それは、主人公の父親が生前中何気ない家族の食事の団欒のシーン。 父親が主人公の学校での授業を聞いている。主人公が黒人の作家のレポートを書かなくてはいけないそして黒人のいい先生の授業だと父親に言ったら父親はやめとけと言う。自分の仕事場もいい白人が黒人に仕事をとられていると。 父親にとって本当に何気ない「普通」の会話だっただろう。 私も両親に言われた事がある。あそこのひと達と遊んではいけない。 親にしてみれば本当に何でもない話だろう。自分の子供が危険に会わないように。 しかし映画に戻るとこの父親の「普通」の会話の後、父親は黒人に殺された。 主人公にとっては殺された犯人自身より「黒人に殺された」と思うのは自然である。
何気ない会話に差別の芽がある。
何気ない会話、普通の会話、自然な会話。恐ろしいものでそのような会話の中に本心がある。
私たちもその何気ない会話こそ気をつけなければいけない。社会、貧困、無知のせいにするのは簡単だ。
主人公はまた「差別」を繰り返すのだろうか。私は決してもとのように戻らないと信じている。敵討ちは「差別の連鎖」「憎しみの連鎖」しか生み出さず、哀しみを抱えて生きていくしか「連鎖」は止められない。主人公は十分わかっているだろう。
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