[コメント] ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972/仏)
quelque chose≒something≒何か
日本語の「何か」では、どうも「何」と「か」が分離しているようで、あまりにも漠然とした語感だし、英語の"something"では、味気ないというか、その<何か>がどうも明確化され、暴露されてしまいそうな語感だ。しかし、仏語の"quelque chose"は、どうもその胡散臭さにクスッと笑いたくなるような不思議な響きがあると思う。
そして、概して、英語圏人(特にアメリカ人)はその"something"を暴露しようとするというか、「脱"something"化」志向があると見る。日本人とヨーロッパ人(特にラテン系)は、その<何か>に対して、あるがままにとどめておく、「いじってもどうにもならない」とやや諦念が見受けられると思う。しかし、概して日本人はその諦念に「刹那」や「無常」を感じ取るけれど、ヨーロッパ系はその諦念でさえも「笑ってやろう」、「楽しんでやろう」とする気質が見受けられると思う。(*本当は、もっと複雑だが、語りだすと長くなるので割愛。)
スマン、なんだか長々と前置きして。さて、この映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』だ。
この作品の初見時は、淫靡なタイトルから「『昼顔』チックなのかしらん」と誘われ、滅茶苦茶ガッカリした覚えがある(←単なる助平野郎)。二度目は頭がウニ化ながら、刺激を受け、「something(⇔)certain"(日本語にすれば、意味としては「"確か"な"何か"、"何か"が"確か"」カナ)というタイトルで、ブニュエル翁に捧げる詩を書いたりした。
そして、チョットしたきっかけで観た三度目。・・・ヤッパリ好きだぁ〜!
これは「詩」でしか言えないというか、普通のコトバ(恰好良く言えば「自然言語」)では、なかなかスッパリと説明できないけれど、こうした「"確か"な"何か"、"何か"が"確か"」な世界を、これほど完成度・成熟度の高い<オトナ>な映画にできるなんて!
それはまるで、一口含んだときは、意外とサラリとしているけれど、舌で転がしていると、重くて深くてドッシリした味わい、さらに喉を通りすぎる頃には、甘くそしてほんのり苦い、そんな年代物の極上赤ワインのような映画。・・・いや、それほどワインには詳しくないけどサ。
この作品での<夢>という「"確か"(⇔)"何か"な世界」の使われ方は、やっぱり<オトナ>だ。同じく<夢>が大好物な監督に、デビッド・リンチがいると思うが、リンチの使い方は、良くも悪くも、やっぱり<コドモ>に感じる(「稚拙」ではない)。デビッド・リンチの「一筋縄ではいかない」さは、そのヴィヴィッドさ、生生しさにあるが、ルイス・ブニュエルのそれは、その卓越した諦念と、自分が属する世界を自虐的なパロディーへと昇華させる遊び心にあると思う。
<欲望>は追い求めても追い求めても、決して"スッポリ"とその手に入れることはできない。追い求めること自体が、<欲望>そのものだと言ってもいい。
ブルジョワジー。その本来の意味は「一般市民」であるが、必要最低限の<欲求>は充足しているはずの彼ら(僕ら)は、「幸せの青い鳥」を求めて、あの田園風景の一本道を、不似合いな正装で、抜きつ抜かれつ、会話もなく、ただただ歩く人たち。本当に心から湧き上がる生生しい欲求からの食欲ではなく、別段食べたくもないご馳走を追い求めては、食い逃がす人たち。ドライ・マティーニの正しい飲み方云々と、<形式>に拘る滑稽さ。その<形式>の裏では、欲望を剥き出しにしてみたり、はたまた時折壊してみたりする、そのさらなる滑稽さ。これを面白いと言わずに、何を面白いと言うのだろう。
そして、その見果てぬ<悪夢>から覚めて思うのだ。「ああ、やっぱり朝飯は美味い!」と。むしゃぶりつくパンの美味そうなこと!
だが、日が高く昇れば、また人は「"確か"⇔"何か"」な<欲望>の道を歩き始める。そして、日が沈めば、また人は「"確か"⇔"何か"」な<悪夢>に魘されるのだ。なんたるシュール、なんたるアイロニー。スゲー!
ただ、僕も、やっぱり『自由の幻想』の毒気と比較してしまう。すると、あいまいながら確かな★4.5となる。
メルシィ♪
〔★4.5〕
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (5 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。