[コメント] 回路(2001/日)
黒沢清の終末観に「?」
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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黒沢清は常に人間を描いている。それも真摯に、辛辣に。確かにこの映画からは「生と死」「孤独」というキーワードが挙げられるだろう。だが私は思う。それらは彼が本当に描きたいものの為の媒介でしかないのではなかろうかと。むしろ本当は人間や現在の世の中が嫌いで、それらを破滅に追い込みたいという願望があるのではないか、とすら思ってしまう。
本当に彼が描きたいのは「終末観」なのではなかろうか?世界の終わりがどんな光景なのか。否、世界の破滅に向かうルートを描いているのではなかろうか。
ほころびが次第に大きくなり、やがて破滅に繋がっていく。そのほころびが「ネット」であったり、一本の木であったり、隣人を無意味に殺すことであったり、東京湾に捨てたヘロインが河口湖(山中湖だったかな?)で発見されたり(^^;;・・・なのかもしれない。
だが、『カリスマ』同様、破滅に至った世界はいたって陳腐である(撮影は大変だったと思うが)。破滅に至るまで秀逸に描いていた世界観や不条理感、緻密で雰囲気の有る画面が、何の脈絡も無く「あの工場に行ってみる?」って言い出した当たりから壊れ始め、飛行機が墜落するに至っては収拾つかなくなってグダグダだあ〜ってな感じに受け取れてしまう。
無人の街は『ディアボロス』より怖いが、唐突な印象を受ける。本来黒沢清が得意とするはずの「静かに蝕まれてく世界」はどこに行ってしまったんだ?非常に残念である。
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