[コメント] 光の雨(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ハム氏のご指摘の通り、メイキングとの二重構造にしたのは、誠実に表現しようと試みたため、と解釈したい。
この作品の重要な側面は、世代間の話であったところだと思う。全共闘世代の監督から、小さな世界を撮ってきた若い世代の監督への委譲。旧世代は、自己との距離の近さに耐えきれず、語ることを断念した。「映画に終わりは来るのか?」という問いは、自分の世代についての清算の断念でもある。それに対し、「クランクインした映画には必ず終わりが来る」と言い放つ若い監督は、それなりの悩みがあったとしても、実際に映画を撮りきってしまう。そして、若い役者たちも悩みながらも、逃げることなく最後まで演じきる。この話自体は、語りの主体を若い世代に委譲していく儀式のようなものであったのかもしれない。
しかし、秦野さくら氏のご指摘の通り、ある意味あっけらかん(たとえどんなに悩んでいたとしても、旧世代の監督の悩みの深さに比べれば、こう言えると思う)とした若い監督は、どのような演出を施したのだろうか?彼の独自の色付けというのは、ほとんど見うけられなかった。若い役者たちもしかりである。それは意図なのか、書けなかった部分だったのかは、よくわからないのだが、結局若い世代が受けとめることは不可能、そして事件の全体像は表象不可能であったと、見る側は感じざるをえない結果になるのではないか。こうした構図は、太平洋戦争の語りの問題とほぼ同様のものである。
この作品を引き合いに出すのは陳腐かもしれないが、劇中劇においての、赤軍派の中身は『鬼畜大宴会』よりずっとしっかり描かれていたと思う。『鬼畜大宴会』がいかに風景だけを借用したゾンビ映画であったとしても、またそう割り切って頭で否定したとしても、連合赤軍のリンチ事件を想像する際に、『鬼畜大宴会』の描写が登場してくることは避けられない(その意味でもあの映画は卑怯だと思うが)。それとくらべると、本作は、ただサディスティックな精神が横行しただけではない状況が描かれていると思う。しかし、あくまで状況が描かれているだけで、肝心の赤軍派の若者一人一人の心情や、彼ら相互の精神の動きはほとんど見られない。表象不可能性を弁解するために、若い監督が撮るという設定にしたのかとすら思える。
しかしながら、この作品の後味は悪くなかった。それは、劇中劇とメイキングの部分に、救いの予感が秘められていたからと思う。妊娠した女性に対する配慮、主要幹部二人が上京した後死にかけている仲間を助けようとした部分、そしてメイキングの部分に移ったあとの死体を演じた役者に対する心遣い、このような他に対する思いやりが、作品のところどころにぽつぽつと出てくる。(だからといって、あさま山荘グループが免罪されるという意味ではもちろんない)考えてみれば、若い役者が、演じるために辿りついた手法は、同じ一人の若者としての回路から繋げることであった。多くの役者がそのような態度をとることで、ヒューマンな側面が作品全体に際立ってきたのかもしれない。
そうは言っても、ヒューマンな回路だけでは、この事件を描くことはできない(それが若い世代の限界?)。あのときの集団心理的なものは、また別の回路からの接続を必要とするように思われる。若い役者の一部に役が乗り移り、総括を迫るというくだりがあったが、これはとってつけた感が否めなかった(若者の描き方もあざとさを感じた)。確実に、もっと何かが必要なのだと思う。そして、連合赤軍事件について、もっとも知りたいことは、その何かではないだろうか。全部を描くのは途方も無い作業だが、少しでも前進させてほしかった。無知の知が結論であっては、「知ってるつもり」のごとく、彼らを駆り立てたものは何だったのか、と問いかけることと同水準に留まってしまう。個人的には、その何かが『鬼畜大宴会』の精神でないことは信じたい。実際、全共闘世代はどちらの描き方にシンパを感じるのだろうか。この話を語ろうとした精神は評価したいと思う。
*実際、立松和平の、「聞いてくれてありがとう」という声には少しだけやられた。あくまで、少しだけだが。
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