[コメント] 害虫(2002/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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これは凄い。期待以上のものを見せてくれた。全篇ドキドキしっぱなしで、こんなのは「はなればなれ」以来!素晴らしい!! 勿論素晴らしいのは宮崎あおいその人なのであるが、その宮崎のエロスを搾り出すようにして撮った塩田のテクニシャン振りに感服。少女を撮るにはまず走らせろ、とは「お引越し」の際に書いたが、塩田はそんな事をせずとも充分少女の湿り気が表現出来る事を映画史上に証明してみせた。ふくらはぎを撮ったのである。そう、これは正に「ふくらはぎ」の映画なのだ。初潮を迎えたばかりの少女を撮るにその紅く如何わしいエロスの匂いを感じ取れる部分はやはり少なく、顔や胸を撮っても効果は薄い。かと言って勿論ここで性器を見せたところで、触覚的な情欲の対象になるとは言え、われわれの視覚が疼きをもって欲する芳醇なエロティシズムに到達する事は出来ない。そこでその性器から放散せられる紅いエロスを受け止め、外気と触れ合わせて芳醇な色香を生み出す場としての「脚」が注目せられるべきなのである。そしてその武器としての「脚」の効用を充分理解しつつ、不敵にも少し大股めにわれわれの前に立ち濃厚なエロスを振り撒く宮崎はやはり不世出のディオニュソス的な女優なのだ。勿論ふくらはぎばかり褒めるフェティシズムでは宮崎と本作の魅力の総てを語った事にはならないだろうが、それにしてもここまで撮れる監督と女優の関係というのはもう、山中貞雄が16歳の原節子を撮り得た奇跡に近い愛の成せる技で、それを「御前、惚れとるな」と揶揄した小津安二郎が後年の完成期にその当の原節子を「惚れ切る」事により「晩春」等数々の作品を完成させたという事実を知るわれわれは、宮崎あおいという存在から21世紀に溢れ、広がり行くであろう日本映画史の大きな荒れ狂う流れを想起せずにはいられない。
それを直観したに違いない黒沢清が作品・監督・女優のそれぞれを「西鶴一代女」・溝口健二・田中絹代に置き換えて並び称したのは極めて合点の行く話ではあるが、ならばそこまでマニアックな視点を持たずとも、もっと比較すべき作品が他にある事を誰もが知るであろう。そう、トリュフォー「大人は判ってくれない」である。冒頭雪のように振る羽毛(やっぱりジャン・ヴィゴか?)から一気に教室の少女達の噂話にまで繋ぎ、宮崎の登場を待って冷淡かつシャープにタイトル・インするカッティングにヌーヴェル・ヴァーグを感じる事は実に容易であるし、第一あの宮崎の歩調が奏でる靴音!正にアパートの階段をリピートで駆け下りるジャン・ピエール・レオの靴音のリズムを意識しているとしか考えられないではないか(リピートと言えば後半、火炎瓶投擲!?で民家を燃やしてしまって動揺する宮崎の後ずさりにしっかり使われていて、そこまでしてしまうと何とも意図が解り易くなってアレなのだが・・・)。となるとラストの処理は黒沢みたく人生への肯定だ何だと見当違いな解釈を介する必要もなく、寧ろ誰もが予想し得るものであったと言える(そもそも中一のガキに人生の肯定だー否定だーなんて言わせてどうする?)疾走する少女。「われ思う、故にわれあり」と自らの実存の優越を声高に叫ぼうと明日は必ず訪れるという絶望を前に、その絶望を体内で中和する事の出来ない少女はただ、疾走するしかないのだ。だがその疾走がまるで「確信に満ちた迷い」の如き凄みを以って宮崎の肢体に立ち現れたが故の戸惑いの結果として黒沢のような評も出て来る訳であって、やはりラストの宮崎の決然たる眼差しは同じくジャン・ピエール・レオのラストカットの眼差しを超えたコンテンポラリーな強さをたたえているのである。つまりここで言える事は、「大人は判ってくれない」を現代に甦らせたのは決して「小さな泥棒」のクロード・ミレールでも「動くな、死ね、甦れ!」のヴィータリ−・カネフスキーでもなく、この塩田の「害虫」なのであり、ましてやロリコンオヤジによって幾分作られた感のあるシャルロット・ゲンズブールなんかよりかは宮崎あおいのタナトゥスの微笑なのだ。そう誇らしく宣言しようではないか。これは紛れもなくトリュフォーを超えた疾走する魂の一大ドキュメントなのだ。
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