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[コメント] 戦場のピアニスト(2002/英=独=仏=ポーランド)

「音」に生きるしかないシュピルマンの過敏な「耳」に寄り添って観れば、戦争は人間的な音が歪められ、拡大され、遮断され、最後には死滅する風景として捉えられる。音が死にゆく過程の描写は「恐怖のミュージカル」。そして、音が、つまり生命が死んだ世界に抗うように響く「最後の音楽」。この状況下で、打算に基づいて感動することなど出来やしない。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ドイツ軍将校がユダヤ人を打つ鞭の音、機銃の掃射音、行進。軍靴が瓦礫を踏む音。整列させられ、選別され、訳も分からず拳銃で「処刑」される際の、一種のリズム感。床に落ちて割れる皿は禍々しいシンバル。彼方でとどろく砲声はバスドラムあるいはティンパニか。

整列と選別、処刑のショットがピアノの鍵盤に見える、というのは多分に私のいいがかりだと思うのだが、人間的な「音」が禁じられ、歪められ、潰されていく過程が「恐怖のミュージカル」として映る。例えば、将校の戯れにユダヤ人達が「踊らされる」シーンでは音楽が完全に貶められているし、ドイツ軍歌を強制的に歌わされるシーンも然り。拡大される悲鳴も、シュピルマンにとっては恐怖の音楽として聞こえたのではないか。そして、隠れる度に彼の耳に去来するショパンやベートーベンの旋律。人間性の最後の拠り所。そして「音楽」はあらゆる形で遮断、中断されていく。

そして廃墟から這い出したシュピルマンと破壊された街のショット。この場合CGだどうだという議論は私にとってまったく意味がない。音が死滅している。人間がいない。劇伴はない(当たり前だ!)。それで十分である。

賛否両論あるホーゼンフェルトの扱いについて。断言するが、打算で感動をコントロールすることなど出来ない。結果的には生き延びた訳だが、あのとき、あの音楽はシュピルマンにとってだけでなく、ホーゼンフェルトにとっても「最後の音楽」だったのだろうと思う。彼の執務室に置かれた家族の写真。敵軍の進撃を前に、「終わり」を予感していたに違いない彼の耳に、あの音楽はどう響いただろうか。想像に難くないだろう。

そして、捕虜収容所で見せた哀れな姿も、シュピルマンの弱さもひっくるめて、ただ彼らが人間だったということ。ここには綺麗事が存在しない。まったくありのままだ。素晴らしい。

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「音が殺されていく」というコンセプトが明快なのだが、一点中途半端だと思うのが、たびたび差し挟まれる叙情的なクラリネットソロの劇伴。このクラリネットソロの奏者はエンドクレジットで表示されていて、ユダヤ人であるかは不明だが東欧人であることは間違いない。何らかの意味があることと思うのだが、「音」の特権は登場人物達のみに与えて欲しかった。

どなたかこのクラリネット奏者についてご存じないでしょうか。掲示板で呼びかけてどなたか答えてくれるのかな?

(評価:★4)

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