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[コメント] 星の子(2020/日)

「わからない」ことを受け止めるということ。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







たとえどんなに非常識で間違ったやり方でも、純粋な心で自分を慈しんでくれる愛情を否定なんてできっこないだろう。自分という人間がその慈しみによって成り立っているからだ…例えばそういうふうに自分の立場を客観的に見ることで、人は「わかる」ことができる。姉や叔父は優しくそれを「わかれ」と説いてくる。でも自分がわかってしまったら、とっくに家族は崩壊しているということを決定づけてしまうのだ。

「あそこに不審者がいる」「そんな汚い水はしまえ!」という憧れの教師からの一言は、「わからない」→「わかる」へと自分を変える、ちひろにとってはいつかは訪れることを恐れていた通過儀礼だったのだろう。ちひろの抱えていたその問題は、「世間の有識者たち」が考えても難しく正解の出ない問題で、「わからない」と答えることが正解なのに。

ごくふつうの人がリラックスしようとして水を飲むのと同じように、ちひろは「金星の水」を飲むが、両親から頭に水をかけられそうになった時に激しく拒否する。その直後のちひろの慟哭は「なんだ、自分だってわかっているじゃないか」という事実を自らつきつけられたからでもあるのだろう。

観客は、この問題の大きさを受け止める存在が、あまりにも小さすぎることを、その時のちひろの手袋に包まれた小さな拳で知ることができる。教師に正鵠をつかれた時の激しいちひろの狼狽をもって知ることができる。母たちと行き違いになる宗教施設のがらんとした空間で知ることができる。ちひろがてくてくと歩くシーンが多く出てくるが、その足取りの不安と信念のバランス加減で知ることができる。ラスト一心に流れ星を見つけようとするまなざしで知ることができる。その知ることができたものは何だったのか。それは「わからない」状態だからこそ、とらえることができた、断じてしまった途端に矮小化されてしまう、わかってしまったら見えてこなくなるものがある、そういうことを味わわさせてくれた作品だった。エモーショナルな場面だけでなく、友達と何気なく会話しているときのちひろの無垢な人柄など、必ずしも芦田愛菜本人の素だけではないだろう。その表現力が素晴らしい。

(評価:★5)

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