[コメント] ファインディング・ニモ(2003/米)
今の社会の抱えている多くの問題を深く深く見えないようにえぐっている。
ニモの生まれ育ち、ということがこの映画の美しくキレイな映像のほんの片隅に実は全く別の意味を隠している。ニモのひれが片方小さくて、泳ぐのも不自由で、そして沢山の卵からかえるとき、お母さん身を挺して守るものの全滅してしまって、残されたお父さんが鎹であるニモ、でもニモは体が不自由なのだが、そのニモを溺愛して溺愛して過保護に育ててしまって、そのニモが連れ去られて、必死に追いかけるという姿はアメリカの社会で思い当たることがあるのだ。
幼児虐待はアメリカから日本に輸入されたと思っている。それは家族が崩壊したとかいうことではなく、あるいは核家族化ということでもなく、言いしれぬ不自由な肉体と精神がこの社会の矛盾を導き出してしまったのだ。この映画で父親は過保護なのではない。当たり前のことをしているのだ。必死で子供を捜そうとする姿は、すでに現代人が忘れた当たり前の行為。
ニモの泳ぎ方が不自由であること。それは子を持つ親なら誰もが思うことだ。自分の子が他の子より劣っている。常にそのように思う。だから愚かな親は他の子供より幾ばくか勝っていると自慢したがる。自分の子は自分の子だ。他の子供と比較するために生まれたのではない。奇しくもニモは本来大勢の中の一匹であったはずなので、唯一の子供として優しく溺愛されたのだ。
理屈抜きで子を思わぬ親などいないはずだが、現代社会の抱える問題はそう甘くはない。親の世代がすでに愛情を失っているのだ。自分が愛情をかけられずに育った親が生まれた子に愛情を注ぐことなどできない。幼児虐待のアンチテーゼとしてこの映画は深く深く考えさせられるものであった。
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