コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 楢山節考(1958/日)

21世紀の青年へ、姥捨てのススメ。
町田

この時代にして恐るべきアンチ・ヒューマニズム!

(新潮社版のあとがきによると)この物語は正宗白鳥をして「我が人生永遠の書」と言わしめたそうだが、木下恵介のこの映画版も原作者・深沢七郎のアンチ・ヒューマン性=怜悧さを殆ど(*)損なうことなくスクリーンに投影し得ている。

この物語は「こんな愚かな因習がありました、可哀相に、お年よりは大切に」などという甘っちょろいヒューマニズムを説いているわけでは断固として、無い。むしろその逆である。物語は、貧しい山村に住む人間の、食や生への渇望、美徳への執着、規制の社会制度に依存する弱さ、などを表情一つ変えず抉りだしてゆく。

映画ではこの突き放した怜悧な視線をミディアムショットで再現。スコープザイズの舞台を右に左に行き交う登場人物の些細な表情になど目もくれない。劇中音楽も悲劇を茶化すような、それでいて霊験で恐ろしいような長唄で纏められていて、悲劇演出といえばお決まりのピアノ不協和音などは一切登場しない。版画のように大胆に色分けされた森と空の無機質な美術効果も圧倒的に冴え渡っている。これこそ紛れも無く映画、ニッポンの映画である!

****

寺山修司は『書を捨てよ町を出よう』の中で「青年よ大尻を抱け」と言っている。 若い者は年寄りなどに気を使わずカラダも顔もイケてる女を抱け、抱いてみろ、 というような意味らしい。

ロックの世界を観てみる。 ミック・ジャガーは59歳。ボブ・ディランは60歳。 エリック・クラプトンも同じような年だろう。 スティーブン・タイラーも45を越えた辺りから俄然逞しくなって「若い奴には負けない」と息巻き、事実過去を上回る商業的成果を上げている。 30年間変わらず武道館や国際フォーラム、ドーム球場を満員にさせるのはこういう老人達である。

そしてこの「ロックの高齢化」を茶化し「俺は死んでいるが、死んでいるのが解らない」と歌ったのもランディ・ニューマンという立派な老人であった。(*99年に発売された最新アルバム『バッド・ラブ』収録された「アイム・デッド」という曲です。)

なんともはや情けないではないか、青年諸君。 「ジジイどもはさっさと消えろ!俺達の時代だ」くらいどーして言えない?

リスペクト?嘘をつけ、嘘を。 リスペクトしているのは老人達が青年だった頃の姿や作品で、最近の彼らではないだろう。(日本では「継続は力なり」という間違った教訓が伝えられて来た。これが正しくは「継続は打算なり」であることくらい今なら誰でも知っている)

****

現代は高齢化社会だという。 年金を貰えないかもしれない憐れで弱い老人が増えてるそうな。 本当にそうだろうか? 憐れな老人を潤すのに何故、前途ある青年から搾取する? 青年の権利を搾取する? 70超えて金髪美女や元女優を囲いゴルフだワインだと飛びまわっている老人たちの遊び金を憐れな老人達に分けてあげれば済むことではないか。

確かに戦後の荒れ野原から裸一貫で立ち直った老人たちは 頭も切れるし腕っ節も強いだろう。保身の術も知り抜いている。 実際顔が広いから公益の面で役に立ち会社としても手放せない。

ここで国家を挙げての改革の必要性を思い立つ。 自衛隊を使って重役老人を姥捨て山に連れて行けば現在の失業問題など一気に解決するのではないか? しかし、これが無理なのは云うまでも無い。 道義的な問題以前に、現在の政治や国家そのものを動かしているのが当の老人たちだからである。

現代の老人達は、この物語のおりんさんのような聞き分けの良さなど持ち合わせていない。姥捨て山に行け、といっても頑として聞かないだろう。 だからこそ青年は気持ちの上では老人を煙たがらなければならない。 老人が「行かない」と思っている以上、青年の方も「早く行け」と思わなければ不公平だ。 青年は社長や会長の女に手を出さなければならない。 青年はステージに上がったら「ジジイの歌は聞きたくない」と言わなければならない。 叶わないと知っていても叫ぶことが必要なのである。 ボブ・ディランを尊敬するならば、本当に尊敬するならば 彼が安心して姥捨て山で合掌正座出来る様な実力と気概を備えなさい、ということだ。「同時テロで沈黙しているようなあんたはもうミスター・ジョーンズだ!」と。

****

こういうことを書くと必ず抵抗を感じる人があると思う。 しかし、内心では誰でも早く出世したい、映画を監督したい、イベントで大トリを執り足りたい、と思っているのだ。(思っていない人は夢や目標など持ち合わせていない幸せものです)

この物語の真の素晴らしさは、そういう青年(≒観る者)の深層心理を見事なまでに見透かしているところにある。姥捨てを断固として拒絶することの出来ない人間の本性を見透かしているところにあるのだ。

(*)・・・又やんの倅(伊藤雄之助)の因果応報は、原作には存在しない。これは木下の意図、制作会社の意図というよりは「時代の意図」及び「限界」であろうから目を瞑りたい。

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)けにろん[*] Santa Monica TOMIMORI[*] のこのこ 水那岐 ぽんしゅう[*] アルシュ

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。