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[コメント] あなたへ(2012/日)

結局、何が言いたいのやら。きっと「それぞれの時間」と「自分の時間」といったことなのだろうけど。なのに、この映画には肝心の「時間」が欠落している。脚本も演出も、倉島という男と高倉健のギャップを埋めることや、流れる時間の連続性に無頓着すぎる。
ぽんしゅう

3つの「時間」が欠けている。説得力のある物語が構築しきれていない原因は、そにあると思う。

まず、倉島(高倉健)という男が経てきた歳月、つまり主人公の年齢という「時間」。映画では倉島の年齢には一切ふれられない。一生独身で過ごすかと思われた晩婚で、定年後も嘱託として務めているという設定から倉島の年齢はおそらく60歳半ばから後半なのだろう。残念ながら高倉健はやはり年相応の70歳後半(後期高齢者だ。おぼつかない足取りが痛々しい)にしか見えない。仮に主人公が高倉の実年齢どおりの設定であるなら、それはそれでかまわない。ただ、60代と70代の男の間には、昭和の戦争経験の有無によって生じた価値観の差により、人生に対する思いに決定的な違いがある。その意識差をうやむやにしたままでは、決して男の履歴物語は成立しない。

二つ目は、倉島(高倉健)と妻洋子(田中裕子)が過ごした時間、すなわち15年の年月(としつき)。作中では、二人の結婚生活が点描として描かれる。それは、まるでポエムの断片のように生活感がなく、どれも逸話と呼べるほどの内容はもっておらず、そこから二人の思いや悩みが物語に反映されることはない。公務として転勤を繰り返しながら家庭を営む物語としては、木下恵介の『喜びも悲しみも幾歳月』(57)が思い出されるが、この夫婦の生活描写からは「時間」の重さをまったく感じとることができない。言ってしまえば絵空ごとの生活が空疎な思い出として描かれるだけなのだ。

最後に、富山から平戸までの1,200キロという距離としての「時間」。冒頭、平戸の郵便局留めで送られた手紙を読むための期限が10日以内と、ロードムービーとしての制約が設けられるのだが、倉島(高倉健)がいったい何日かかって平戸に着いたのかよく分らなっかた。これでは、接近する台風や難航する船の手配といった物理的サスペンスも当然のこと一切機能しない。時間と距離と場所と、そこで係わる人物の人間味(性)の機微が丁寧に描かれ、費やされた「時間」と労力と、その代償の意義が生まれる。こそが移動(ロードムービー)の醍醐味だろう。

この映画の収穫は、兵庫・和田山の竹田城址の幻想的な絶景と、ついに余貴美子が日本映画界においてポスト吉行和子のポジションを不動のものにしたことが確認できたことぐらい。

観る前はデヴィッド・リンチの『ストレイト・ストーリー』(99)のような映画を想像していた。「老人」としての高倉健をスクリーンで観ることなど、やはりかなわないのだろうか。いくつになっても、あの「健さん」を求められる老スターの姿が、少し気の毒に思えた。

(評価:★2)

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