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[コメント] SR サイタマノラッパー(2008/日)

「カモン、トムッ!!」 驚嘆すべきラスト。衒いのない迫真。質疑応答など、ともすれば拷問になりそうな長回しを苦しくも笑える場面にする演出は好感触。「道中で聴けって!」といった妙ゼリフ、ポスターに合掌などもよい。(2011.12.29)
HW

**ネタバレ注意**
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 興味深いのは、ここでの「地元」が、なにか「都会」といったものと対比されているようにまったく見えないことだろう。ラストで、イックは、俺はまだここでラッパーの魂を捨てずに闘っているぞ、とトムに呼びかける。なぜあくまでこの場所で闘うのか? 物語中にとりたてて明示されはしない。それにしても、この映画は、「東京」と結びついた「成功」(あるいは「挫折」)の物語とも、帰郷を恥じる挫折者を抱擁する「故郷」の物語とも一向に無縁である(もちろん、みひろのキャラクターにそうした物語が割り当てられてはいるが、彼女にとってはその「成功」ゆえに帰郷を恥じなければならないのであり、故郷はどこまでもよそよそしいままに終わる)。

 映画のオープニングは、国道沿いの「イトーヨーカドー」や「ガスト」の似合う風景から始まる。「都会」を扱った映画も、「田舎」を扱った映画もともに排除する、しかし、関東圏どこにでも、いや、きっと日本中どこにでもある風景だろう。走り続ければ日本のどこへでも通ずるだろうが、どこまで行っても同じものしか待ち受けていない、そんなことを予感させる、歴史も未来も感じさせないのっぺりと続く郊外の景色。しかし、70年代・80年代以降の日本に生まれ育った大半の人々(監督は79年生まれ)にとって、「故郷」なんて多かれ少なかれそんなものなのではないだろうか。大きな建物もないが、広がるのは畑ばかりで「うさぎ追いし」と歌われるような自然があるわけではなく、釣りは言及されてもスポーツとしての釣りでしかないのも、都市化されもしなかったが、人工化はされている、そんな郊外的な空間を感じさせる。

 けれども、そんな貧相でしかない故郷を卑下し憎悪するのではなく、イックのラップが志すのは、「ここサイタマから、世界に向けてソウル・トゥ・ソウル」というその場にいながらの世界とのまったく対等な(まさしく「宇宙人」的な)メッセージの交信であり、また、他方で「ファッキン・グンマ」「ファッキン・トチギ」との凌ぎ合いなのであって、たとえばアメリカ帰りの英語に通じた「本場仕込み」のラッパーだったら屈託なく口にしそうな「日本人」といったアイデンティティに頼ることがないのもおもしろい(と、私自身が、日本語ラップに対するベタな偏見も、ベタな英語コンプレックスも持ち合わせているので、敢えてこう書いておこう)。

 主人公二人を見捨てた仲間たちが向かう「東京」が「東京ディズニー・リゾート」の「東京」でしかないことは、もちろんギャグに過ぎないかもしれないが、しかし、映画にとっての必然性を感じさせもする。彼らの滑稽さを笑うのならば、「東京」に「出発する」という態度表明がとうにドラマたりえない事実を同時に思い出さなければいけないだろう。彼らが「東京」(浦安にはないほうの)に旅立たないことを知って、どこかほっとしているのは、私たちのほうではないのだろうか。もう「東京」はたいして遠くもないし、たぶん、夢や希望を抱いていく場所ではない。だいいち、「夢」はとっくの昔にディズニー・ランドの専売特許なのだ。

 旅立ちもせずに地元で敗北感を味わい、しかし、ヒップホップを諦めないイックは惨めだろうか。惨めだと思う。そんな敗北感などいくらでも避けて通れたはずなのだから。ラストで、イックがトムに取り戻させるのは、なによりこの「敗北感」だろう。忘れることだってできたはずのこの敗北感をトムもやはり忘れていなかった。だからこそ、この場面はつらく、そして感動的だ。敗残者が勝者と成り上がるのではなく、敗残者として闘い続けること。ヒップホップは彼らに自信を与えるが、それは、ダサい田舎のダサい自分と決別させてくれるから、ではなかったのだ。そうではなく、たとえ敗残者であっても闘い続けることを教えるからなのだ。この出発点にはじめて立ったところで、映画は終わる。

(評価:★4)

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