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[コメント] 光の雨(2001/日)

「死ぬまでやってなさい。全共闘〜の同窓会」(*0) and/or 「わたしたち観客は、自己批判と再度の総括を要求します」と言うしかないのか? 志は評価の対象にはなりえないのだ。
Amandla!

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







*0)「死ぬまでやってなさい。全共闘25年目の同窓会」は、斎藤美奈子さんの評論集『読者は踊る』、「歴史はこうしてつくられる」からの引用句(以下の※も同書からの引用句)(*1)。

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 まじめに作ろうとした。丁寧に作った。その結果、気持ちだけが空回りしてしまい、問題のスリ替えに終わった。好意的に解釈するとこう言わざるを得ないけど……。

 冒頭に流れるニュース・フィルムを編集した迫力あるフィルム・ドキュメント。そして、それにかぶさるセリフ――、

 「革命をしたかった…」

 「生きるすべての人が、幸せになる世の中を……、創りたかった」

 観ている側としては、ここで思わず固唾を飲んで画面を見つめてしまうよね。「いっ、いったいナニごとが始まるのかしら」と身構えてしまう。旧世代の人は、こういうシーンで郷愁にふけるかもしれない。『全共闘白書』(新潮社)、『全共闘グラフィティ』(新泉社)の同窓会ノリなんだろう。「キャー、恥ずかしい」(※)

 でも、体験したことのない世代にとっては見たこともない別世界。「おっ? いったいナニ?」と思わず身を乗り出したら、画面は一転メイキング仕立てになり問題がスリ替わる。な、なんと若い世代は自分の肖像を突き付けられてしまうわけだから、こりゃ問題のスリ替えでないとすれば、何なのか。レトリックのつもりかもしれない……けど。

 若い世代を登場させて、物語る内容といえば「ほら、キミたちにも覚えがあるだろう」みたいな比喩、あるいは暗喩をつかった阿諛追従。そんなもので「あの時代」を語り継ぐことになるのか?

 あげくのはて、無責任な全共闘ノリを体現するかのように、劇中で監督を逃亡させてしまう。これによってますます「あの時代」から遠ざかる。「連合赤軍」と百万光年も離れた話へワープし「分析を放棄し」(※)てしまった。

 実在の人物・永田洋子さんをモデルにした上杉和枝を演じた裕木奈江さんは語る――、

「お話を頂いてから資料を集めて読みましたが、何故あんな事をしてしまったのか、どうも分からなくて監督に聞いたんですね。そうしたら『俺もよく分からない』って。それを聞いて気が楽になりました」(オフィシャル・サイト(*2)より)

 『俺もよく分からない』発言については、いくらか割り引いて解釈してさしあげましょう。分かりもしないのに分かったような講釈をされるよりは、よほどまし。だからといって登場人物に「分からない」という台詞を言わせたり、役者に言わせて、いいわけがない。まったく「なんともファジーな全共闘レトリック」(※)。

 では、原作者である立松和平さんはどう思ったか――、

「ある日私の前に高橋伴明は三十代の男をともなって現れた。その男こそ青島武であった。団塊の世代である高橋伴明や私などは、連合赤軍は良きにつけ悪しきにつけどうしても思い入れがでてしまう。そこに苦い批評的な視点をいれる必要がある。プロデューサーで脚本家でもある青島武が何稿目かに持って書たシナリオは、明らかに若い世代からの批評がはいっていて、私は座り直すような気持ちで読みつづけた。現代の若い世代が、『光の雨』映画を葛藤とともに撮影するという物語になっていた。私とすれば私の『光の雨』を書いたのだし、青島武は彼の『光の雨』の脚本を書き、高橋伴明は彼の『光の雨』を撮ればよいのである。同じことが、闘った全てのスタッフとキャストにいえる」(立松和平ホームページより(*3))

 劇中劇についても、立松さんは――、

「それは全く気にしてませんよ。高橋監督に全て任せてましたから。大体、考えて下さい。10年か20年後の日本なんて、文章では書けるけど映画で表わすのは難しいでしょう。日本はどうなっているのか全く分からないし」(鈴木邦男をぶっとばせホームページより(*4))

 原作者としての、この発言は誠実だ。ただし、「団塊の世代である高橋伴明や私などは、連合赤軍は良きにつけ悪しきにつけどうしても思い入れがでてしまう」という部分は大いに疑問。だってそうでしょう、その「思い入れ」を立松さんは、誠実に、小説で表現したのではなかったのか。高橋伴明も同じように「思い入れ」を表現すればいいではないか。

 立松さんは当初、雑誌に連載を始めたころ、盗作の疑いを受け、いったん小説を断念。しかし思い直し、盗作問題を避けるため、実名をすべて仮名に変え、30年後のフィクションに設定を変更して書き上げた。執念と苦闘のあげく書き上げた小説だった。おかげで永田洋子さんは「上杉和枝」、京浜安保共闘は「革命共闘」……と、いちいち頭の中で置き換えながら読むという面倒を強いられる作品となった、誰が見ても実在の事件をモデルにしたのは明白なのに。小説で残念なのは、結局「総括死」を強いられた/強いた人たちへの「思い入れ」と、「語り継ぐ」ことを強調したにすぎない点。けれど、作家立松和平さんの誠実さが伝わってくる力作。

 その立松さんの誠実さが、映画『光の雨』に向かうとどうなるか――、

「映画は完成した、試写室の暗闇にいて、私の日は熟くなっていた。これまでの様々なことを思い出したということもないわけではなかったが、映画の中にすっぽりと包み込まれて私は一観客となっていて、それで涙を誘われたのである。原作者は、映画に裏切られることが多いものだ。私はいおう。原作者として、素晴らしい映画に仕上がったと私は断言できる」(立松和平ホームページより(*3))

 断言されても困るんです。誠実な立松さんの、やはりこれも「思い入れ」にすぎない。知床における開拓小屋の廃屋を改造した山岳アジトでの撮影は感動的だったかもしれない。映画製作へのさまざまな支援、撮影にまつわるさまざまなドラマがあったであろうことも、立松さんの文章からは伝わってくる。けれども肝心の映画からはそうしたものは伝わらない。小説『光の雨』と「連合赤軍事件」をネタにした、単なる青春テレビドラマ以上のものは出てこなかった。若い世代はダシにされてしまったのだった。

 立松和平さんは小説『光の雨』をものにした。高橋監督はそれに引きずられて付和雷同的に、つまり全共闘ノリで追従したんじゃないの?

 志や気持ちは買いたい。けれども、それは映画の評価とはまったく別物だろう。さらに、原作を似て非なるものに改竄する結果となった。なんともはや…。原作者は了承しても、読者としてはそう判断せざるを得ない。

 映画を観ていて終始思い出していた映画がある。マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『鉛の時代』"Die Bleierne Zeit"だ。戦中戦後のドイツ史を背景に、西独赤軍のグードルーン・エンスリンと、その姉、女性誌『エンマ』の記者クリスチアーネ・エンスリンの姉妹の絆を、姉の視点から二人の体験を忠実に再現して描いた1981年の映画。歴史、政治、思想、ジャーナリズムなど多岐にわたる問題を提起した20年も前の作品であった。

 残念ながら映画『光の雨』は歴史も、政治も、思想も、さらには若い世代の姿も、いずれも十全に描けたとはいえまい。もし、監督がこの作品をもって、「連合赤軍」を総括しえたというならば、酷は承知で「死ぬまでやってなさい」と言うほかない。志だけを評価するわけにはいかないのだ。小説ならば根気よく600頁つきあわなくちゃならないけれど、映画なら2時間ほど椅子に座ってただ漫然と観ているだけ。あれっぽっちの描写で何かが分かったような気になられても困るじゃないの。秦野さくらさまの丁寧な review には頭が下がりました。muffler&silencer[消音装置]さまの review 「explain myself, express myself ―『ジブン探し』しかしてこなかった…」も、好意的に過ぎると思える。でも、「ジブン探し」にも失敗して逃走とは……。

 国家の立場で、治安維持、危機管理の視点から描いた『突入せよ!「あさま山荘」事件』の近日公開が伝えられるだけに、まったくもって遺憾。

 高橋伴明監督の再起を切に望む。ちなみに長谷川和彦監督も、やはり連合赤軍を題材にした映画を構想中とか。同じ轍を踏まぬよう、こちらにも切に望む。

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 「映画化をしたかった。今を生きるすべての若い世代が共感を得られるように……、創りたかった……」

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  【参考文献】

*1)『読者は踊る』(斎藤美奈子著)→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167656205/

*2)裕木奈江プロフィール→http://www.cqn.co.jp/HIKARI/cast/uesugi/tkb.html

*3)朝日新聞2001年12月5日付けコラム、立松和平ホームページ(「光の雨」バナーと和平発言「故郷は若いうちにつくる」01・12/5) →http://www.tatematsu-wahei.co.jp/

*4)鈴木邦男をぶっとばせ「今週の主張12月17日 異義なし!僕らも革命をしたかった」→http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/shuchou125.html

★『日本赤軍派−その社会学的物語』(パトリシア・スタインホフ(Patricia G. Steinhoff)著、木村由美子訳、1991年、河出書房新社刊、絶版)ハワイ大学の著者が社会学の立場から客観的に分析。おすすめ。前半は日本赤軍、後半が連合赤軍を扱う。どこにでもいる普通の人が総括死を強要するに至る構造を分析している。本書を超える分析は未聞。

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  【追記】ふぅ。お正月に新文芸座で観て以来、ず〜っと澱のように溜まっていたもやもやをようやく文章化できて、少ーしすっきりした感じ。観客はやはり「あの」世代が多かったみたい。意味不明でひたすら「感覚」のみに訴える作品を、ぬぁんと大絶賛する人たち(若松孝二さんとか)がいることを知って「え?マジ?」って鬱積するものがあったの。田中美津さんの名言「永田洋子はあたしだ!」とか、歌人・道浦母都子さんの「私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ」(道浦母都子『水憂』より→http://www1.jca.apc.org/aml/9910/14491.html)などを噛みしめつつ、本稿を書きました。

  【追記020310】『図書新聞』2月9日号コラム「カルチャー・オンザ・ウェッジ」(評論家・伊達政保さん)に辛口レビューを発見。「オイラはどうも気に入らない」なるタイトルで、「運動や活動から離脱したことを、連赤事件を口実にしているようにしか思えない」と、状況分析ひとくさり。レビュー自体は非常にシンプルで「小説も映画も逃げているとしか思えない」「なぜ真っ正面から書き、撮ろうとしなかったのか」と鬱憤をぶちまけ、高橋監督の「総括」の部分を引用すると――、

「ただ小説には無く、映画には出てくる台詞がある。商社マンを辞め、山岳拠点に合流した兵士の、非合法活動に参加できて嬉しいという決意表明に対し、リーダーは『なぜ商社で(革命を)追求しようとしなかったのか、非合法活動に逃げ出してきただけでは無いのか』と批判する場面である。これが高橋伴明監督の連合赤軍に対する総括なのだと思う」

 え? たったそれだけなの? と思わず絶句! けれど、よくよく考えてみると、その通りかもしれない。もしそうだとすれば、観客としては次のように言うしかないのかも…。

 「高橋伴明さん、わたしたちはあなたに自己批判と再度の総括を要求します」と。

  【追加参考文献】(020314)

 【いま見たばかり】粉川哲夫のシネマノート2001-10-26「こうした集団のディレンマを描いる点では、「楽園」(共産コミューン)が総括・リンチに陥っていくプロセスを描いている『ザ・ビーチ』(参照・シネマノートの2000-03)、『ディスタンス』(同2001-04-12_2)、『リリー・シュシュのすべて』(同2001-08-20)の方が、問題の核心にせまっている」→http://anarchy.k2.tku.ac.jp/japanese/cinema/notes/2001-10.html

↑これを読むと、高橋監督は「連合赤軍崩壊後に可能性としてあったラディカルな文化主義」を封印してしまったことになる?

  【備忘的追加参考文献】

 「連合赤軍とフェミニズム」上野千鶴子著『文学を社会学する』(2000年12月1日・朝日新聞社刊、初出『諸君!』1995年2月・文藝春秋刊)

  【参考文献一覧】(2002.11.30)

http://chi0010.infoseek.livedoor.com/book.htm

  【要注目サイト】(2002.11.30)

1969-1972 れんごーせきぐんと「二十歳のげんてん」→http://chi0010.infoseek.livedoor.com/

同サイト内『光の雨』→http://chi0010.infoseek.livedoor.com/hikari.htm

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このコメントを気に入った人達 (6 人)koba sawa:38[*] muffler&silencer[消音装置][*] kazby[*] 秦野さくら[*] ina

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