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[コメント] エル・スール −南−(1983/スペイン=仏)

「ずっといるよ わたしの中 今は 眠ってこの胸に 燃えた炎は やがては消えたけれど…」
kiona

 どうしても『みつばちのささやき』との相関を想起したくなるのは、どちらも少女の多感が主題だったという漠然とした理由ばかりでなく、かの映画のアナもこの映画のエストレリャも、非常に危うい者の傍らにいて、危うい立場にあったという点で共通していたからではないだろうか。アナの傍らにいたのはフランケンシュタインの怪物であり、文字通り危い存在だったわけだが、エストレリャの傍らにいた父親アウグスティンも異端者(背教者)であり、ある意味、怪物である。

 共通しているのは、アナもエストレリャも、怪物を怪物、異端を異端と認識しておらず、惹かれていたという点だ。だが、アナが、闇の中に沈んでいき二度とは浮かんでこないかも知れないという、一種際限のない危うさを孕んでいたのに比べて、エストレリャの危うさはあらかじめ安全を宣言されたものだった。言うまでもなく、ナレーションのことを言っている。大人の女性の声、垣間見える成長、老い、少女の神秘性が肉体に捕らわれた証、そして何より言葉、それに垣間見える理性、凡庸とも言える…。

 言葉/(論理)/理性により歯止めがかけられない感性の危うさ、それがアナの危うさなら、エストレリャの成長過程は、その言葉、とりわけ父親を巡る言葉――例えば父が思いを寄せる女性の名前等――の意味と格闘しながら、自身もその言葉で武装し、怪物に取り込まれていく危うさから脱却していく過程であったのかも知れない。

 さて、そのエストレリャが脱却し、隔絶した怪物、父親アウグスティンであるが、何とも弱々しい怪物であった。彼は、劇中でひたすら喪失し続けた。そして、何一つ得られなかった。夫婦間の心の通じ合いは最早無く、娘は神に奪われ、思いを寄せる女性からの愛は得られず、成長した娘の心が巣立つのをただ見送った。(家族から孤立し、恋人も得られず、友もなく、そして神も信じない、然るに心を打ち明けられる者が一人としていない。怪物たるに、これ以上必要な条件があるだろうか?)

 では、何故そうなってしまったのか? 彼は南という彼岸と父親の思想、そして信仰を拒絶するのに、闘争(南への帰還)ではなく、逃走(北での安住)を選び続けてきた。確かに、それで拒絶は可能となるのかも知れない。だが彼は痛感していたはずだ。逃げ続ければ、拒絶することはできても、何かを獲得することは永久にできないのだと。

 それでも彼は帰れなかった。ならば、その末路は当然の帰結だったと言えよう。(そして重要なのは、彼という怪物が逃れし者の象徴として描かれていた点だ。)

 切ないのは、そのいかにも弱々しい怪物の皮を剥いでしまったのが、彼を慕っていたその娘だったということ。(言うまでもなく彼女も、北で産まれ南を知らずに育った世代の象徴として描かれていた。)剥いだ本人である彼女は、怪物の末路を何となく予期できたに違いない。そして、その悲劇を受け止めたのだろう。それにより、彼女は現在の自分を確保したのだから。

 だが、いかに自身が怪物から脱却しようと、怪物への恋に別れを告げようと、その存在が彼女の中から完全に消えてしまうことはなかった。かつて怪物の娘だった、その余韻の中、凡庸な色恋沙汰に埋没できようはずもなく、運命により導かれていく、怪物を産んだ地へと…。

 “何がその怪物を造ったのか? その答えが彼の地にある。”

 やはり物語は此処からだったのだ。

(評価:★5)

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