[コメント] Death Note デスノート the Last name(2006/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ゲームを駄目にするのはルールの上書きである。それは、ゲーム性を売りとするプロットにおいては、ゲーム性を台無しにするのみならず、リアリティーをも喪失させる。初めに観客から取り付けた了解を裏切るからだ。結果、ライトやLがいかに権謀述作を繰り出していると言われても、ルールに着いていけない観客にとっては後だしジャンケン大会を見せられるようなものとなる。
後編のシナリオは、この原作の一番駄目な部分を払拭しきれていなかった。ただ、原作を知る者として、少しだけ映画の擁護が許されるなら……これ、本当に頑張った方だと思う。それは金子修介を筆頭に脚本家も含めてだ。言っては何だが、本当に、あんなマンガをよくもここまで実写に仕立てたと思う。役者も良かった。特にLを演じた松山ケンイチ氏は出色だった。
原作踏襲の制約の中で、映画が気を吐いていたのは、前半、テレビ局突入までのスペクタクル――ここのテンションは掛け値なしに素晴らしい。平凡な日常を切り裂いて立ち現れる第二のキラ、メディアを通してあたかも怪獣のごとく肥大化するキラ幻想、付和雷同する大衆たちの歓声が悲鳴に変わる瞬間、踏み潰された犠牲者の傍らで猛る少女、そして被害者だったはずが加害者となっていた自分に気づく怪物=ミサ――これは紛れもなく怪獣映画の亜種であって、少なからぬ怪獣映画がそうであるように、デス・ノートというバカげた虚構が確かに世相を映して見せた瞬間、時代の申し子たる映画として自らを刻印したと言ったら言い過ぎか。
そして、ラストはオリジナルだった。オリジナルである以上に、原作への抵抗だったのかもしれない。原作は最後まで「大人を圧倒する子供たちの物語」だった。若年層に向けたエリート気取りの耽美と裏腹の幼児性を暴走させながら、結局、箱庭に収束していった。だが、映画は、原作においてはライトに殺された夜神総一郎(鹿賀丈史)を生かして見せた。Lの勝利とともに、大胆な改変である。敗北に沈み、汚名に塗れながらなお妄信を叫ぶ息子を、生き延びた父親=大人が叱責し、諭そうとし、想い叶わず、その死を見取る。これは大人たる製作者たちの良心であり、自戒と思えた。デス・ノートの実写化に意味があったとすれば、まさにこの点ではなかったか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (12 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。