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[コメント] キングコング対ゴジラ(1962/日)

キングコングとゴジラを戦わせるというのは、特撮映画にとって、いや世界の娯楽映画にとって、国境を越えた一大イベントだったはずだ。そこには様々な難題があったはずだ。
kiona

それをやってしまったのだから、当時の日本映画のタフネスを想うと溜め息が出るが、この映画が難題をいかに克服したかを考えてみたい。

 そもそも特撮映画は、ストーリー、人間キャラクター等、全ての要素を特撮中心に回さなければならない。なかんずく怪獣映画は、怪獣に映画の容量の半分を費やさなければならない。ましてキングコングとゴジラという二大スターを同じ枠内に収めるともなれば、もはや人間描写は等閑になっても仕方がない。しかし、ともすれば役者達すなわち人間達を蚊帳の外に追いやってしまいがちな特撮映画にあって良品と粗悪品を分けるのは、えてして彼らをきちんと特撮に食らいつかせ、活躍させられるかどうかにかかっている。やはり映画は人間を描いてこその物種だからだ。

 そこでこの映画だが、高島忠夫藤木悠有島一郎、このエネルギーに満ち溢れた俳優陣を見て欲しい。怪獣の影に埋もれてしまうばかりか、連中を圧倒せんばかりの勢いで、高度経済成長期の日本人のエネルギーをそのままスクリーンから発散させている。どういう本編演出だったのか?

 一つ、前二作の『ゴジラ』に漂っていた暗さを潔いぐらいに払拭してしまい、全くのコメディ・タッチにしてしまったこと。一本の特撮映画をここまで確信を持ってコメディにしてしまったのは、世界の特撮映画を見渡しても、画期的だった。言葉で言えば簡単に聞こえるが、一大イベントをコメディにしてしまうなんて、普通は恐ろしくて出てこない発想だ。まさにコロンブスの卵だった。

 二つ、人間を絡ませるストーリーが秀逸だったこと。この映画、結局最後は人間が見守る立場に収まってしまっていて、一見平成ゴジラの役者がただのお客さんになってしまう展開と同じなんだが、そこへ至るまでが明らかに違う。両雄の対決を何とか実現させようと奔走する忠夫達の七転八倒は興行師の奮闘記になっており、新製品のテストと売り込みという当時の観客のつぼを刺激しそうなエピソード等を散りばめつつ、ラストの公演実現に雪崩れ込んでいく展開は、ただ見守る人間達の立ち位置を自ずと平成ゴジラの傍観から脱却させているのだ。たとえるなら“バンナ対安田”をまんまと成功させた猪木の立ち位置といったところか。

 三つ、革新的なことばかりやったこの映画だが、わけても注目に値するのは音楽の使い方だ。この映画における音楽の使い方は、普通の映画のそれではない。この映画にあって、音楽はストーリーを成す重要な要素となっているばかりでなく、人間と怪獣というスケールを異にする者同士を結びつけるという甚大な役割を担っている。本編と特撮に分け隔てられ撮影される中で、ともすれば分裂しそうになる人間と怪獣だが、この映画では、音楽が両者の鼓動を同じスクリーンの中に釘付けにし、人間による怪獣への大きな働きかけを実現させているのだ。無論そんな特殊な映画音楽を作れるとすれば、伊福部昭をおいて他にいない。そもそもこの人が出てくる前の日本映画の映画音楽というのは、倦怠するシーンを埋め合わせる補強としての至極消極的な役割しか担わされないという、そういった側面が少なからずあったらしい。少なくとも音楽は主役ではなかった。ところが『ゴジラ』において、映画音楽は革新的な役割を得た。その声、そのテーマ、物理的限界がある様々な特撮に、わけても怪獣に、或いは典型的な日本人の顔にしか見えない原住民や宇宙人に最終的な息吹を与えていたのは、他ならぬ伊福部昭の音と音楽だったのだ。そして、そんな自己主張する映画音楽を取り込むことができたのは、地味で淡泊であるとさえ勘違いされる本多の本編演出の懐の深さがあればこそだったことも付記しておきたい。自分が、この映画で何よりも見て欲しいのはそこだ。

(評価:★5)

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