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[コメント] 風立ちぬ(2013/日)

「風立ちぬ、いざ生きめやも」という日本語訳の適否には諸説あるそうだけれども、ともかく、常識的な認識の枠組み内では何らの関係も持たないはずの「風」と「生きること」に何らかの連絡を見出だせずにはおれない感受性において、ポール・ヴァレリー堀辰雄宮崎駿は一直線に連なるのだろうかしらん。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







堀越二郎はよく眠る。

まず第一に「病床にある最愛の女性を見舞うことすら叶わないほど、まさに寝る暇も惜しんで仕事に没頭する」さまを演出するには、却って入眠の瞬間を描かなくてはならない、という物語創作の逆説がある(ほとんどの映画のほとんどの作中人物は睡眠中の姿を撮られることはない。だからと云って観客は彼/彼女が一睡もしない人物であるとは思わない)。あるいは、まったく眠らない/眠れない人物を造型するには『マシニスト』のクリスチャン・ベイルや『インソムニア』のアル・パチーノのようにメイキャップと演技における強力な作為を要するが、むろんここで『風立ちぬ』が取るべき方法はそれではない。

第二に「夢を見る」ためには眠らなければならない。堀越二郎はよく夢を見る。だからよく眠る。なるほど、二郎とカプローニが出会い、それをもって物語を推進するために「夢」という舞台が要請されるという作劇事情は諒解する。しかし必然性という点において、それが夢でなくとも、たとえば二郎の想像や妄想、白昼夢といったものであっても構わなかったのではないか。また、それらのいずれであるかを曖昧に留めておくこともできたはずだが、『風立ちぬ』は夢に固執し、さらには二郎の入眠を描くことによってそれが「睡夢」であることを律儀に明示しなければ気が済まないらしい。近作を見ていれば宮崎駿が今やかつてのように豊饒かつ引き締まった教科書的なストーリテリングに興味を持っていないことは明らかだったにしても、これではいかにも芸が無いように思える。

しかし「芸が無い」という評こそ芸が無いのだと言下に訂正したい。現実には出会う機会のない憧れの人との対話を叶えるために夢を導入し、それが睡夢であると断定的に示す。そのために二郎はよく眠(らされ)る。脚本/演出家としての宮崎に認められるこの一連の思考展開を、私はひとまず「ラディカルな素朴」と呼んでみたい。

ラディカルな素朴。たとえば、震災や取り付け騒ぎといったパニックシーンにおいて人々が蠢くロングショットの面妖な空間把握はいったい何だろう。当代の標準的なアニメーション映画のそれでは断じてない。その図像のルーツを私なりに求めて辿り着いたのは、一遍上人聖絵など中世の絵巻物だ。あるいは、地震を文字通り波状にうねる大地としてアニメートするという直截的なアプローチの作画。宮崎のアクション演出の天才がいささかも衰えていないことは軽井沢の紙飛行機シーンを筆頭に複数の箇所で饒舌に誇示されるが、それに加えてこのようなラディカルに素朴な画面感覚が映画に異様な昂奮を注ぎ込んでいる。

ただし、以上のごとき論旨に添う限りでそれよりも取り上げるべきは、やはり脚本/台詞設計についてだろう。二郎が菜穂子に向かって語るほとんど身も蓋もないほどに明快な愛の言葉、またその他の作中人物と交わされるきわめて簡明な会話群の美しさは、庵野秀明の恵まれた声質と意図的に制限された抑揚も相俟って、まるで小津安二郎野田高梧が著したダイアローグのように異形の透明性を獲得している。

宮崎の脚本はもはや物語展開に凝った仕掛けを施すことを試みない。出来事の因果律にも作中人物の心象の推移にも取り立てて重きを置かない。ただひとつびとつのシーンが、カットが、さも当然のごとき態度で自らを潔く断片化するよう促されている。稀代の天才アニメータ/演出家の最終作である(というのはいかにも疑わしい)『風立ちぬ』が彼の偉大なフィルモグラフィにおいてどのような序列を与えられるべきなのかについては即断を避けるけれども、作劇技術の巧拙で測られる次元とはまったく異なる境地で「映画」を鷲掴みにしてしまうラディカルな素朴にかけて、これを脚本家としての宮崎駿の最高到達点であると記して私は何ら羞じない。

(評価:★4)

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