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[コメント] ゴッドファーザーPARTII(1974/米)

劇中に描かれるマイケルはほとんど食事を口にしない。逆説的に、これは食卓の映画だと言っていい。また、これは第一義的に「影」の映画である。深度を増して黒々と沈んだシルエットで語るコッポラウィリス)の画は、全ての人間が亡きヴィト像を通して投げかけられる影であることを示す。ヴィトの幻影(時代の名残)を懐かしみ、そのことによって苦しめられる、「影」として在ることしかできない「こどもたち」。
DSCH

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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マーロン・ブランドは不在であるが、不在であることによってその存在感は否応にも増している。マイケルが出征する直前の、過去の食卓シーンでも、ヴィトは登場しない。これは非常に的確な演出である(下手っぴな演出家ならフラッシュバックを混ぜるだろうが、勿論そんなことはない)。苦しんでいるのはマイケルだけでなく、妹のコニー、トム、フレド、父を知る全ての人間だ。それは、敵方であるロスやフランクについても言えたことなのかもしれない。

死してなお尊敬を集めながら影=亡霊のように生者を苦しめるヴィト。というよりも、冒頭で述べた通り全てはヴィトの影として描かれているように思われる。ここでちょっと私が違和感を感じるのは、第一作のタイトルロゴにはマリオネットの操り糸が描かれているが、第二作のオープニングでは外されていること。これについて、私の観察力の不足によるものなのかもしれないが、むしろ操り糸のタイトルロゴは第二作にこそふさわしいものであるように思われる。(よくよく見ると、若きヴィトが移民街のマフィアを暗殺するシークエンスに併行して描写される祭りには、甲冑を身につけた騎士が斬り合うマリオネットの出し物が供されている。象徴的なシーンであると思う)。

クライマックスの食卓シーンを待つまでもなく、これは食卓の映画でもある。若きヴィトのシークエンスでは「ファミリー」を囲んだ食事シーンが頻繁に挿入される。ここでは、ヴィトが血まみれた殺人者というよりも、第一義的には「調停者」であろうとしたことが描かれており、後年のヴィトの人物像を説得的に語っている。また、キューバを脱出したマイケルが居宅に戻ったシーンで、あくまでさりげなく無人の食卓を映し出すシーンとの対比の細やかさ。

しかし、マイケルが家長として不能であること、結局の所罪人であることを断罪する映画では決してない。あくまでドライでフラットなのである。ただ、単純に、物語がそこにあるだけだ。ここがこの一連の作品の最たる美点だと思う。

パチーノのラストショットでさりげなく結婚指輪を映すあたりもニクイね。    

興醒めな私見:マーロン・ブランドの声音まで真似たデ・ニーロの演技には否定的。あのかすれ声は、ドンに到るまでに重ねた綺麗事では片付けられない所業への倦怠に由来するものだと考えている私には不自然と思う。つまり、歴史と共に獲得されたものだと思いたい。登場早々にバリバリにヴィトヴィトしているのはどうかと思う。確かに巧いですけどね。                                       

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)りかちゅ[*] けにろん[*] 煽尼采 ナム太郎[*] ぽんしゅう[*] サイモン64[*]

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