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[コメント] 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生(1997/日)

死ぬのはいや死ぬのはいや死ぬのはいや…

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







殺してやる殺してやる殺してやる…。心性の短絡的な変容は(このアスカの復活に無邪気な喝采を挙げてた若い受け手も含めて)正直アブナイと思った。己の他者感覚の無さに無自覚で被害者意識だけをつのらせていくところなどは、オウム的な心性そのものだと思う。

復活したアスカ(弐号機)の暴れようは、まるでウルトラマンが無人のオブジェ群を破壊しているかのようで、殺される方の視点が全く欠如していたのが気になった。たとえば、“迫り来る巨大な弐号機の姿に怖れ戦慄く戦略自衛隊員達”みたいなカットがあってもよい気がした。これは意図的な表現だったのだろうか。

自殺的な結末に身を投げたテレビシリーズ(*)。しかし過去の「不思議の海のナディア」では、ネモ船長に「生きろ!」と叫ばせていた。そしてヒロインのナディアは母なる故郷・地球へと帰っていくことになる。この地球を帰るべき母性の象徴として描くような感性はOVA「トップをねらえ!」からこの「エヴァンゲリオン」まで変わらない。その感性の起源を溯れば『ウルトラマン』や『宇宙戦艦ヤマト』に辿り着くのだろうが、問題なのはその感性が全体主義的な一体感を羨望していることだと思う。だからこそ、母体回帰的な物語の破壊が必要だった、とも言えまいか。物語を無理にでも予定調和的に完結させることは多分出来たハズ。けれどもそんなことをして結局どうなるのかという疑念が鬱積していたのも確かなのではないか? またぞろ母体回帰的な物語を反復するだけでは、結局何も変われないと思ったのではないか?

ちなみに最終話のアレは、“自己啓発セミナー”のパクリであって、「哲学的」というような形容は適当ではない。あの程度の自己を実体視するような視点を「哲学的」とは呼ばない。

*)テレビ版最終話の放映直後、監督のもとに宮崎駿から「とにかくしばらく休め」という電話があったらしい。宮崎氏らしいと言える。

(評価:★1)

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