[コメント] 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(1964/英)
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キューブリックは、人間が自ら作り出した「システム」や「仕組み」の中で、仕組みの一部たろうと振舞う人間たちが、やがては必ずや誤りを犯していく姿を好んで描く作家だと思う。それは完全犯罪を企てた男達の始末記であり、暴走するコンピューターの挿話であり、暴力や性欲を科学的にコントロールしようとする試みであり、「愛」さえ供給されるべきサービスだという価値観を有する消費社会であり、兵士ではなく兵器であれという話だったりしたが、いずれも企図した仕組みにおいて、機械のようには「作用する」ことが出来ずに破綻していく人間たちのありようを暴き出して見せる。「核による防衛システム」という仕組みこそ、特にこの作品が作られた時代においては尚更、キューブリックにとって最も直近の「恐れ」であっただろう。
自分たち人間が作り出した巨大なシステムはもはやシステムの中に取り込まれることしか生き方に選択の余地はなく、人間社会のトップに位置する政治家たちでさえ、システムと人間の間の調整役でしかない。彼らは意思決定者ではないのだ。タイトルに「如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」と掲げているところに注目したい。ついには核の連鎖爆発が始まった時、彼らはストレンジラブ博士の提案に「これからの仕組み」を見出し、自分達のあり方を知ることができたので、心配するのを止め、順応していくのである。システムの中にとり込まれて生きようとする時に人間は無思考な存在に堕していく。それこそがキューブリックがもっとも敏感に反応する人間の忌避すべき姿なのだ。
「もしこの映画に出てくる人物たちに馬鹿馬鹿しさを感じる人たちより、実際に馬鹿馬鹿しさを演じる人たちが上回るようなら、私はもうあきらめましょう。人類は滅んで下さい。そして私と同じ「恐れ」を感じる人たちと「また逢いましょう」いつの日か。」最後は作品を通じての観客への呼びかけでもあるのかも知れない。
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