[コメント] イノセンス(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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本作を鑑賞して一番にそして最も強く感じたのが、演出家押井守の演出力の決定的な低下だ。個人的には前作『攻殻機動隊』を見た時にそこに何の先鋭性も見出すことができずに軽い失望を感じたのだが、これは雇われ仕事で押井の望んだ作品ではない、『アヴァロン』を鑑賞した時の失望は、これは実験作が故に弛緩していることに意味がある、と必死に自分に言い聞かせていたことで逃げていた解答を本作によって否応なしに突きつけられたわけだ。つまり、押井守という人は、傑作『パトレイバー2』を頂点にして以降は駄目になってしまっていたんじゃないのか、と。
くしくも押井が雑誌のインタビューで、背景を3DCG化することでレイアウトの演出力が低下したので光源処理でごまかしたと語っていたのだが、見ていていろんな意味で辛い映画だった。上でも書いた演出力の低下はアクションシーンの酷さにも現れている。本作のラストには、洋上の建造物へ殴りこみをかけるという『パトレイバー1』と同じプロットが存在する。この一連のアクションシークェンスにおいてパトレイバー1では建造物たる"箱舟"の構造を十二分に観客に提示、把握させたのに対して、本作においては建造物の構造も、内部の登場人物の位置も、時間の経過すらもよくわからない。これ以外にもこの監督の過去作品を彷彿とさせるシーンが大量に登場するのだがそのどれもがオリジナルの過去作品からの縮小された再生産品であり、表現としては全敗であろう。
脚本家としての押井守にも多大に失望させられた。過去の押井作品において、高い完成度にあった複数プロットの連結が本作では巧く行われていない。愛玩ロボットの連続殺人事件と、キムとの対話に代表される主人公達の人形行脚、バトーと素子の関係、バディムービーとして見たときのバトーとトグサの関係の対比といったさまざまなプロットの連結といったものが。それこそ、脚本の技巧では、主人公のミニマムな恋愛劇と、バックグラウンドでの組織間の権力抗争を見事に連結せしめた『人狼』の脚本以下である。
こういった連結が行われていないこともあって、本作でも行われているほとんどの押井映画での、ラスト前に停滞していた物語やばら撒かれた複数プロットが集約することで物語が大きく動き、舞台が象徴的な場所へと移行する作りがまったく機能していない。それが顕著に現れてしまっているのが、今回のラストに主人公であるバトーが移動する艦艇がなんら説話上での象徴化作業が行われていないことで、ここでの潜入アクションが物語的にもまったく盛り上がらない。こういった作りは、作品の中盤においてバトーが択捉の町に対して言及したように、本作はプロットが拡散することで映画の全体が成立していることに意味があると押井は抗弁するのかもしれない。つまり作品の構造がテーマを反復している作りを志向した、と。しかし、本作ではこういったしかけが成功しているとは到底思えない。これについては以下で語る。
内容に目を向けよう。本作のタイトルバックの映像。惑星と衛星→細胞分裂→人形の作成→人形のコピー。これは複製子の流転であり、コピーされる人形は身体イメージの延長を現しているのだろう。
例えば、キムの館での一連のシーン。バトーとトグサは、反復しつつも微妙に旋律が変化していくオルゴールの音楽をバックに、虚構と現実の境界で何度も同じ行動を繰り返す。こういった類似の流転によって反復された全体の構造が、連続性の中での微小な変化を遂げるといった仕掛けとして映画全体の構造にフラクタルに持ち込まれている。
さて、上記で指摘したタイトルバックや映画本編から推測するに、作品の規範は反人間主義や反身体的なポジションに置くかれている。しかし、なんというか本作は、そういった要素が存在しながらも非常に手ぬるいペシミズムを想起した。
ダッチワイフたるセクサロイドという事象を使用しながら、直接的に性行為に関連した描写はほとんど見られない、セクサロイドそのものもおおよそ性欲を抱きそうにない気持ちの悪い造形の人形だ。これはおそらく、本作の根幹である反人間中心主義、つまり人間や生物は身体や肉体こそその根本につかさどる存在であるとした価値観への明確な反論なんだろう。身体など実存しない。観念が具現したものこそ身体である。ならば観念によって作られた人形と人間はどう違うのか。あるいは観念の憑依が身体性を示すのなら、純粋な思想によって作られた人形は人より美しいのかもしれない。身体こそが心を写す虚像である。こういった不道徳な仕掛けは大好きだ。肉体の躍動や体への痛み、他者との触れ合いこそ人の実存の根源である、こういった考えは最高にツマラナイばかりかフィクションで描く価値のある考えとは思えない。上記の考えの賛同者は、書を捨て、フィルムを焼き、山野を走り回り、邂逅を繰りかえせば良い。と、ここまでなら本作の趣旨に対しても大きく賛同しただろう。
本作では虚像であり表現形たる人の身体や都市や人形を形作るものは、複製子の流転や表意、脳の身体イメージの延長であると規定してみせる。故に上記の存在が憑依した対象は、人間であれ、人形であれ、犬であれ、等価なんだ、と。 映画のラストには、人間のごとく精巧であった愛玩用の少女アンドロイドは実際の少女の脳をコピーしていた、といった真相が用意される。主人公のバトーは、人間の脳がコピーされた人形への哀悼と怒りを示し、ここで人形と人間の差異と共通の事象が明示される。しかし、これは逆説的に言えば脳=観念の絶対性が描かれたことに他ならない。それこそ"人間と人形の境界"転じて"脳と身体の関係性"を描く以上、脳のモジュールとコネクションにおける先天性と後天性の境界に踏み込むべき必要がある。下でも重ねて書くが、観念の絶対性がここでは示されてしまったのではないか。本作ではここでそういう問題が露呈してしまうことには無頓着に思える。
終幕においては、家庭を持つ生身の人間であるトグサの幸福と、犬を飼い機械の体を持ち想い人は具体的には存在しないバトーの幸福は等価であることを描く。あるいはこのシーンにおいては、トグサの娘の持つ人形とバトーが抱えるバセットバウンドとの間の人が介在しないコミュニケーションが描かれる。これをもって、既存の価値観への反意と見ることもできるだろう、しかし個人的にはこの一連の表現は、身体を否定しながらも間接的であれ人の観念だけは肯定してしまうと感じた。こういった表現を見た時、不徹底なアンチ・ヒューマニズムあるいは、上での指摘した生ぬるいペシミズムを感じ本作に対して決定的に失望した。
観念すらも否定する、もしくはその存在の揺らぎにまで踏み込むべきだろう、そこから見える人とはいったい何か、そういった地平を見たかった。
押井の次回作に期待しつつ、評価を保留する。
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