[コメント] ガルシアの首(1974/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
『ワイルドバンチ』が人生のベストと言ってもいいほど大好きな私にとって、この映画は正直イマイチだった。ラストはいいんだけど、クライマックスが「ワイルドバンチ」よりもしょぼく見えてしまうからだ。それを確認するためもう一度見直したところ、この映画には同じような場面が実に多いという点が気になった。なぜこんなに重複する場面が必要なのかと考えてみると、ある場面にヒントが隠されていることに気づいた。それは主人公が組織の幹部がいるホテルに出向く場面である。この時、主人公は整理番号を渡される。その番号は「11」。そしてこの数字こそがこの映画を象徴していたのだ。
「人」という字は、人と人が支え合ってできていると金八先生はかつて説いた。では「11」という数字は、何でできているのか。これを図形として見た場合、「1」と「1」という数字が並んでおり、それは「対」になっている。そう、この映画のキーワードは「対」だったのだ。その「対」を念頭において、この映画の全体像を思い浮かべてみた。映画はボスの屋敷から始まり、ホテルや酒場を巡って墓場へと辿り着く。そしてそこから折り返し、着た道を戻り屋敷へとさかのぼる。つまりこの映画は、墓場の場面を折り返し地点にし、前半と後半が対になっているのだ。同じ場所、もしくは同じようなシチュエーションを反復し、物語は始まりの場所に回帰するのだ。この映画は「自分のやったことは、対のように自分に返ってくる」という因果律を現していたのである。
それでは順を追って「対」の場面を振り返ってみよう。まずは冒頭とラストの屋敷。次に、前半と後半で反復される幹部のいるホテルの一室。酒場で主人公が殺し屋たちに出会う場面と、その殺し屋たちと撃ち合う場面の対。この場面では場所こそ違えど、どちらにも観光バスが登場し、二つが対であることを証明している。そして墓場へと車で向かう道中のお供、行きは女で帰りは首だ。続いて、ヒッピー二人組に襲われ彼らを殺すまでの場面と、太った殺し屋に襲われ彼らを殺すまでの場面の対。最後に、墓場におけるガルシアの死体と女の死体の対、さらにもう一つ、女を失って嘆く主人公が地面に頭をうずめる姿と、首のないガルシアの死体とが対になっている。他にもこの映画には、「なんでこんな場面あるんだろう?」というシーンがいくつかあるが、それらには必ず対になるシーンがあるはずなので探してみると面白いだろう。例えば、主人公が女のベッドでしらみを取る場面と、腐った首にたかるハエという「虫」の対比、などである。
そして劇中でペアとなる二人組をよく見れば、みんなどこか似ていることに気づく。二組いる殺し屋の二人組といい、ヒッピーの二人組といい、どれも似たもの同士であり、その二人が並んだ姿はまさに「11」という数字そっくりだ。ついでに主人公とガルシアも口ひげという点で共通している。主人公は恋人の女とはペアになれず、ガルシアの首とペアになったと言えるのである。そして女はボスの娘に少し似ており、共におっぱいをさらけ出すところが対になっている。さらにこの映画の主要人物の多くは2発の弾丸で死んでいることにも注目してほしい。二発の弾丸、つまりそれは「11」であり、二発で死んだ者は因果律を内包していた者と言えるのだ。そう考えると女二人も乳首という因果律を持つ者として描かれており、一人は始まりの場所で命を生み、一人は終りの場所で命を落すという対照的な存在と言えよう。
また、これは不寛容の映画でもある。そもそも事の発端は、娘が子を身篭ったことが原因だ。父と娘の間に男が割りこみ、父は男を許さなかったのだ。次に主人公も自分と女の間に男がいると知り、それが許せないでいる。なにしろ相手の首を切りに行くのだから、とても許しているとは思い難い。つまりボスの不寛容と主人公の不寛容はガルシアという人物を通して一致し、それが合わせ鏡のように対となっているのだ。例のホテルでこの整理番号だった主人公は殺し屋に言う。「11だ。ラッキーナンバーだ」と。これは主人公がボスと対の役目を担うという運命を予見していたと言えよう。
そしてラストシーン。主人公が全身に銃弾を浴びる壮絶な最期だ。ここで、なぜ主人公は二発の弾丸で死なないのか?という疑問がわく。それは、彼の受けた銃弾は敵味方問わず劇中で放たれたすべての弾丸であり、それが主人公の元へ結集することで物語が帰結したことを意味しているのだ。それはラストカットの銃口のアップにも繋がっている。銃口の形である「円」はそのことを現しているのだ。ついでに言えばあの弾丸は、劇中で殺された者たちが主人公に対してツッコミを入れてるようにも思える。「なにおまえだけカッコつけてんだよ!」とか「おまえが引き返してたらみんな死なずにすんだんだよ!」とか「おまえも同類だろ。こっち来て反省しろ!」と。主人公は『黄金』のハンフリー・ボガートのように、欲に目が眩んだことがすべての原因だったにも関わらず、「賞金なんか懸ける奴が悪い」としか思っていない節があり、そんな自省なき主人公に対し、監督の鉄槌が下ったのかもしれない。
最後に、この映画の真の主人公は誰かというと、実は屋敷にいるボスだったのだ。これは彼の「人を許せないという不寛容さ」が、巡り巡って多くの人命を奪い、そしてそれが自分の元に返ってくる物語なのだ。この映画のクライマックスが地味なのも、ボスが主人公だからであり、主人公以外の者が目立っては作品のバランスが崩れるため抑制されていたのだ。こうして数字「11」は、行きと帰りで対になり、銃口の「円」となって終結したのだ。実にしゃれた円ディング、いやエンディングではなかろうか。
この映画には、ここに書いたこと以外にも埋もれている演出がまだまだありそうで、そういう意味でこの映画はまさに宝の山、いやまさに『黄金』のような映画なのだ。この映画の構造と演出は『ワイルドバンチ』にも匹敵し、それは間違いなく最高得点に値すると確信した。以上、コメント終り。
しかしこんなに長々と書いてしまったことは、いつかきっと自分に返ってくるのだろう。ハチの巣にされる前に謝っておこう。どうも容量無駄に使ってすみませんでした。みなさんも寛容の心を忘れずに・・・。
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