[コメント] GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995/日)
高度情報化社会と言われて久しい。しかし、この映画が公開された1995年頃の日本は、学術機関や一部大手企業、そしてマニアの間でインターネットの有用性が唱えられ始めた頃である。それでも、フツーの人に「私、パソ通やってます」なんて言ったら即行「オタク」認定、ましてや、「(^o^)/ハロー」なんて書こうものなら友達を失いかねないご時世であった。そんな時代であったからこそ、電脳やサイボーグ、それを繋ぐ情報網などをモチーフにしたこの映画は、まさに近未来を予想させる「SF」の名に相応しい映画であったかもしれない。
それから7年が経ち、女子高生も「(^o^)/ハロー」とケータイ電話からメールを打つ時代になった。インターネットは家庭に浸透し、もはや生活の必需品と言っても過言ではない時代。たとえ電子機器が脳にインプラントされていなくとも、私達は膨大なネットワーク上のデータベースに絶えずアクセスし、情報交換することが可能な環境を持つに至った。私たちは確実にサイバースペースの住人になりつつある。映画中の映像と実現された形は違えど、まさに私達は7年前に描いた映画の世界に近づいている。
さて、私は『攻殻機動隊』を恥ずかしながら初めて1年前に観た。「SF」と呼ぶには、モチーフ的には多少使い古された感はあるが、その言わんとしていることは全く陳腐化しているようには感じなかった。(それは私の無知によるところもあろうが。)
この映画の中に登場する人物は、ほとんどが電脳や義体が組み込まれ、半サイボーグ化されているという舞台設定である。そのなかで、このアニメがフォーカスするのは「ゴースト」を巡る問題であると言える。この映画で唱える「ゴースト」とは、その人だけのアイデンティティのようなもの、つまり「魂」とでも言おうか。この物語では、脳の機能の一部である計算等の情報処理機能や知識といったものは他人と共有したり侵入したりすることができるが、「ゴースト」、つまりアイデンティティは、個々が持つ、犯されない聖域であるとしている。しかし、その「ゴースト」の存在は非常に不確かで曖昧なものである。なぜなら、本人でさえ自分の「ゴースト」は見ることができないし、その存在を確かめることもできないから。もしかしたら「ゴースト」など、とっくに消滅しているか、あるいは誰かにのっとられているのではないか(船のシーン・素子のセリフより要約)、そうして主人公・素子は不安に陥っていく。その姿は、まるで、電脳機器を操り膨大な記憶装置や高速な検索装置を手に入れた、巨大な脳を持つ現代の私達の姿そのものである。サイバースペースは、自他の境界をあいまいにする。つまり、それにより自己も拡張していくが、同時に自己の起立点も奪い去っていく。他者との思考の接点は無限に増えた。しかし、圧倒的な情報の洪水のなかで、何をもって「正義」とし何をもって「虚偽」とし、自分が今どこに立っていて、どこに行こうとしているのか、その方向性を見失っている。(私だけか?)
ここで「自己」たらしめるものとは、「人間の存在とは」などと青くさいことを書く気は無い(それは、映画の中に展開される、原作に付加された尤もらしい「押井論」で十分満喫できる。しかし私はそれがかなり好きだ。)しかし、アイデンティティとは、危うい存在でありながらも、常に変化しうるものであり、他者との交わりのなかで生じていくものであるということを、(アタリマエのことなのかも知れないが)こうやって明確に表現してくれたこの映画との出会いは、私にとっても、思考のあり方を再考する機会となったのである。(その思考の革命とは、アニメへの一種の偏見の払拭も含まれる)
* 次展開を期待させる中盤の香港の描写は大好き。
* とにかく脚本・音楽が大好き。
(02/07/23コメント改変)
*前回コメント:02/03/20最新劇場鑑賞。何度観ても好きで好きで好きで好きで。観て→皆様のコメント読んで→開眼して→観て(繰り返し続く・・)。これ以上好きな映画は多分当分出ないと思う。凄く好きな映画って、コメント書きにくいものなのだなあ(すいません)。
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