[コメント] ハウルの動く城(2004/日)
色んな宮崎アニメの要素(技術)を練り直して洗練させた感のある今作。しかし、今までのノウハウを集大成させたってほどの力作でもない。案外、気楽に作った自分のパロディってあたりが本当の所ではないのだろうか。ハイジあり、ナウシカあり、ラピュタあり、もののけあり、千と千尋あり、耳をすませば(猫も含む:どっちも監督作じゃないが)まである。どうせ、オレの客はオレの映画をみんな見てる」と強引な感じがなかなか独裁者っぽくていいじゃないか。まぁ、宮崎映画の何を評価していたかによって、この映画のシャレは評価が分かれる所だ。「ついに宮崎もセルフパロディか…」と言われれば「ハイそれまでよ」という居直りにも感じた。といっても、あまりに後半の急いだ収束のために落ち着きのない物語になっちゃったわけで、それこそ「アハハと楽しめる」映画にすらなってない。中途半端に面白い映画だった。子供には辛かろう。
しかし、セルフパロディと位置づけたわけだが、今回、宮崎監督が唯一、自分のパロディを取らなかったと思うのが「マルクル」のキャラだ。今までの宮崎御大なら、自らのコアなファンの期待に答えて、このマルクルの存在は8歳ぐらいの少女(ぱんつ必須)なはず。原作がそうだからって理由で「男の子」にするような監督ではない。きっと、なんとなく「助手は女の子」の方が受けるからって理由で女の子にしたはずなのに今回は男の子。この「なんとなく」という理由で女の子が自分の胴体ほどもある大きい薪とかとうもろこしとかスパナとかを両手で持ってパタパタ走って「はい、先生!」とか渡す姿が宮崎映画であったわけだが、そしてその結果、監督は「うん、映画に元気と華やかさが出た!」と満足しつつ、実はこれこそがロリファンウハウハ「さすが宮崎!」というコアなファンのツボであり、誰からも「ルパンはロリコン」「ムスカはロリコン」「豚でロリコン」「さすが監督はロリコン魂を判っている」と仲間意識で言われてしまうポイントであった訳だな。
そう考えると、今回のマルクルが男の子だったという理由が、「ハウルはロリコン」と言われるのだけは避けたかったという事だろう。しかも、ロリコンではない男で魅力あるキャラを書けたためしが無い(←パズーとかトンボ)宮崎監督にとってはかなり厳しい状況になったはずだ。このポイントへの挑戦の為だけに作ったと言ってもいいのかもしれない。主役の女の子がどうとかよりも、「主役の男をロリコンに見せない!」という点。「いいかっこしいの小心者だけどその純粋なココロは綺麗な青年」という設定。本当はロリコンというダークな面を映画以外の所で隠し持っているかもしれないけど「女には興味ねー」って所を出す為に一生懸命になっている。これで木村拓哉がロリコンだって言われたら笑うけどな。
キムタクといえば、思いがけず出来は素晴らしかった。倍賞さんが上手過ぎて(演技しすぎてて)、倍賞さん(さくら)にしか聞こえないのに比べて、特に前半の木村拓哉はハウルになっていた。ソフィーが出て行った時に「ちょっ待ァてよっ!」なんてセリフが聞きたかった所でもあるが、あったらあったで台無しになったんだろう。
しかし、このパロディ映画が本当に最後の映画になるのだろうか。長年のテーマだった「人間の愚行への警告」は今回もあったわけだが、もはや人間不信としか思えない宮崎監督が出した「地球を救う」方法には結論を出したようだ。
「魔法使いが地球を救う」
これで引退?ちょっ待ァてよっ!
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